バイブル・エッセイ(839)救いの実現

f:id:hiroshisj:20190127185123j:plain

救いの実現

 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:11-21)

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスは言います。この文脈では、油を注がれた者、すなわちメシアであるキリストが、今まさに人々の目の前にいるということでしょう。2000年を経てこの言葉を聞いているわたしたちにとっては、聖書を通してイエスが語る言葉を聞き、そこからあふれ出す神様の愛を信じるなら、そのとき救いが実現すると解釈してもよいかもしれません。
 言葉を通してイエスの愛に触れ、それを信じて救われるということを、わたしは講演会の会場でよく目にします。マザー・テレサの言葉を引用しながら、聖書が語るイエス・キリストの愛について説明していると、会場のあちこちで泣き始める方が出てくるのです。例えば、毎日、子どもの世話や家事ばかりで、何もできないままに人生が浪費されると嘆いているお母さんは、「子どもや家族のために愛情を込めてする日々の掃除や洗濯は、途上国のスラム街での奉仕と同じくらい尊く、価値がある」と聞いて安心し、涙を流します。自分は失敗ばっかりで何をやっても駄目。生きている価値がないと思い込んだお父さんは、「たとえ失敗ばかりでも、自分なりに精いっぱいに生きているというだけで、わたしたちの人生には意味がある」と聞いて慰められ、涙を流します。わたし自身もよく体験することですが、神様の愛に深く触れ、安心して心の重荷が軽くなるとき、わたしたちの目からは涙がこぼれるのです。その涙は、神様によって救われたしるしだと言ってもいいでしょう。
「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」というイエスの言葉に、イエスがもたらす救いがどのようなものかが要約されているように思います。「捕らわれている人」とは、さまざまな理由から「自分の人生には意味がない、自分には価値がない」という思い込みの中に閉じ込められてしまった人と考えたらよいでしょう。イエスはその人に、「そんなことはない、あなたは生まれながらに神様の子ども。生きているというだけで、限りなく価値のある存在だ」と告げ、その人を捕らわれの檻から解放します。「目の見えない人」とは、世間の価値観に目を曇らされて、自分の本当の価値が見えなくなっている人とも考えることができるでしょう。イエスは、そのような人の目を開き、神の子としての自分の命の価値に気づかせるのです。「圧迫されている人」とは、競争社会の論理の中で人々から見下され、自分には価値がないと思い込まされている状態だと考えられます。イエスは、そのような人に、「人間の目にどう映ろうと、神様の目にはあなたは限りなく尊い存在だ」と語りかけ、その人を圧迫から解き放ってくださいます。
 わたしたちにも、聖書を取って読み上げる役割、すなわち、聖書を通して自分自身が出会ったイエスの愛を、人々に活き活きと語る役割が与えられています。イエスの愛と出会って救われたわたしたちには、イエスの愛を人々に告げる使命が与えられているのです。聞いた人の心に救いをもたらすイエス・キリストの愛を、力強く語り、伝えることができるよう神様に祈りましょう。