バイブル・エッセイ(1122)苦しみの意味

苦しみの意味

 そのとき、羊飼いたちは、急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、彼らは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカ2:16-21)

 羊飼いたちの話を聞いて、その場に居合わせた人々はただ不思議に思っただけだったが、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とルカ福音書は記しています。子どもを、寒くて不衛生な家畜小屋で生まなければならなかったということ。羊飼いたちに天使が現れ、「あなたがたのために救い主が生まれた」と告げたということ。そしていま、羊飼いたちがそのお告げ通りの光景を見て大喜びしているということ。それらの出来事を「心に納め」たマリアは、いったい何を思っていたのでしょう。
 羊飼いたちがやって来るまで、マリアはきっと、「救い主であるはずの自分の子どもが、なぜ、こんな家畜小屋で生まれなければならなかったのだろう。なぜこの子は、こんな寒さや臭い、不衛生な環境に耐えなければならないのだろう」と思っていたことでしょう。生まれたばかりの自分の子どもに与えられた過酷な試練の意味を思い巡らし、神に問いかけていたのです。
 羊飼いたちがやってきたとき、その問いに答えがもたらされました。野宿暮らしで汚れた服を着、羊のにおいを漂わせている羊飼いたちが、同じように不衛生な環境や寒さ、臭いに耐えているイエスの姿を見て、「この方こそ、わたしたちの救い主に間違いない」と確信し、救いの喜びに満たされている。もしイエスが、暖房の効いたきれいな部屋に寝かされていれば、羊飼いはその姿を見て自分たちの救い主だと思っただろうか。生まれたばかりの幼子イエスが味わっている苦しみには確かに意味があった。イエスは、羊飼いのような貧しい人たちと同じ苦しみを味わい、彼らの苦しみを共に担うことによって、彼らのための救い主になるために生まれてきたのだ。それが、マリアの問いへの答えだったのです。
 マリアがこのとき、すぐこの答えにたどりついたかどうかは分かりません。しかし、イエスが成長して家を出、貧しい人々のもとに福音を告げる旅を始めたとき。さらに、十字架上で人間のすべての苦しみを自分自身のこととして担い、苦しみながら死んでいったとき。イエスの死後、その生涯を改めて思い巡らしてみたとき、いずれかの段階でこの結論に到達し、その確信を深めていったに違いないと思います。イエスが、人間と共に苦しむことによって人間を救う救い主であることを、マリアは確かに悟っていたのです。
 自分は贅沢な暮らしをしながら、貧しい人たちにお金を与えることによって貧しい人々を救う「救い主」ということもありえたかもしれません。しかし、神はそのようなやり方を望まれませんでした。それでは人間の心を救うことはできない。人間を救うためには、神自身が人間の苦しみを共に味わい、人間を愛し抜く以外にないとわかっていたからです。人間を救うためには、その人と同じ目線に立ってその人を愛する以外にないと、神はよく知っておられたのです。
 イエスがもたらした救いの意味を、もう一度マリアとともに「思い巡らし」、その恵みを深く味わうことができるように。また、わたしたちも人々の苦しみを共に担うことによってイエスの救いのわざに参加することができるように、心を合わせて祈りましょう。

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