入門講座(3) 世界の創造と人間

世界の創造と人間

《今日の福音》ヨハネ14:27-31
 「わたしは平和をあなた方に残し、わたしの平和を与える」とイエスはおっしゃいます。但し、その「平和」はわたしたちが普通に言う平和とはだいぶ違うもののようです。実際、イエスの弟子たちはたびたび迫害を受け、この世的な意味での平和を味わうことはできませんでした。では、イエスが与えた「平和」とは何だったのでしょうか。
 イエスが与えた「平和」とは、自分を神に与えつくした時に与えられる充足感や喜びのようなものではないかとわたしは思います。家族を養うためにへとへとになるまで働いて帰ってきて、居間でくつろいでいるときに味わうような平和、徹夜で看病を続けていた子どもが元気になって、安心して横になったときに感じるような平和、そのような平和がイエスの言う「平和」に近いのかもしれません。家族や隣人のための労苦を神にささげたときに、心から喜びが湧き上がってくるならば、きっとそれこそがイエスの言う「平和」でしょう。イエスの与える「平和」は、わたしたちが愛する人のため、神様のために自分を捧げつくした時に与えられるようなものなのだと思います。

《世界の創造と人間》
 なぜこの世界はあるのでしょうか、人間はなんのために生きているのでしょうか。人間の世界には、なぜこれほどたくさんの苦しみや悲しみがあるのでしょうか。そんなことを考えたことはありませんか。今回は、世界の始まりにさかのぼって、人間が存在する意味を考えてみたいと思います。神様がなんのために人間を造ったのか、それがわかれば、人間がどう生きたらいいのかも分かるはずです。

1.創造とは何か?
 旧約聖書の冒頭に、世界創造の様子を描いた物語があります。創世記と呼ばれるこの文章は、紀元前6世紀ころに書かれたと言われています。意外と新しい文章です。紀元前6世紀頃、ユダヤ人たちは国を滅ぼされ、バビロニアという敵の領土で奴隷のような生活を送ることを余儀なくされていました。そのような苦しみの中で、なぜ世界にこんな苦しみがあるのかと人々は考えました。その問いは、神様は一体、なぜこんな世界を造ったのだろうという問いへとつながっていきました。この問いに答えるために書かれたのが創世記の物語なのです。
 創世記は、2つのことを確認しています。まず、この世界は神様によってよいものとして造られたということです。神が創造した世界は「極めて良かった」(創世記1:31)と書かれています。神様は、世界を良いものとして造られたのであって、人間を苦しめるためにわざと悪い世界を造ったのではないということです。神様は、世界を愛し、いつくしむ方であることが創世記の記述からわかります。では、なぜ世界に苦しみが生まれたのでしょうか。それは、人間が神の言いつけに背き、自分勝手にふるまったからだと創世記は言います。神の言いつけに背いてエデンの園の中央にある木の実、知恵の実を食べたアダムとエバに対して、神は労働や出産の苦しみを与えます。創世記が確認していることの2つ目はこのことです。世界は本来、苦しみのないよいもの、神の秩序に従った完全なものであったのに、人間が神の言いつけに背いたためにその秩序が崩れ、この世に苦しみが生まれたということです。
 このように考えることで、囚われの身だったユダヤの人々は将来に希望をつなぎました。人間が再び神に立ち返るならば、いつか必ず神が創造の秩序を回復してくださるはずだと信じて、苦しみのときを乗り切ったのです。過去に起こった世界の創造についての物語は、現在の世界がどうあるべきかについての指針を人間に与え、人間が生きる意味と目的を示したのでした。

2.人間が造られた目的
 人間が造られた目的について、キリスト教では三位一体の神を出発点にして考えます。父と子と聖霊の交わりである神は、ご自身の中にある愛の交わりを被造物にまで拡張したかった、だから自由な意思で神を愛することができる人間を造ったのだ、と考えます。動物や植物に神を愛することはできません。自由な心をもった人間だけが神を愛することができます。被造物と愛の交わりを結びたかったからこそ、神は、神を愛することができる存在としての人間を創造したのだということです。このことを出発点として、多くの人たちが世界の創造について思いめぐらし、語っています。ここでは、その中から3人の言葉を紹介します。

(1)アウグスティヌス
 4世紀頃、北アフリカのヒッポという町の司教だったアウグスティヌスは、『告白』という本を書きました。この本は、多くの人々に読み継がれ、近代の思想史にも大きな影響を与えています。この本の冒頭でアウグスティヌスは神に向かって、「あなたは私たちをあなたに向けて造られ、私たちの心はあなたのうちに安らうまでは安んじることがない」と言っています。人間は神の愛に向けて造られているので、神の愛の中で安らぐまでは、決して完全に満たされることがないというのです。若いころのアウグスティヌスは放蕩の限りを尽くしたといわれていますが、その放蕩の結果到達した結論がこれでした。お金も、名誉も、あらゆる快楽も、決して人の心を満たすことがない、神に向かって造られている人間は、神と結ばれるまでは決して満足できないということです。確かに、どれほど買い物をしても、どれほど快楽をむさぼっても、人間はけっしてそれだけで満足することがないようです。最近、日本社会で見られるスピリチュアル・ブームなどは、そのことの一つの表れでしょう。物質的な欲望の充足で物足りなくなった人々は、精神世界に満足を求め始めたのです。アウグスティヌスは、自分の体験に基づいて、このような人間の本性を鋭く見破ったのでした。

(2)イグナチオ・デ・ロヨラ
 イエズス会創立者イグナチオ・デ・ロヨラは、代表的著作である『霊操』の初めの部分で、次のように述べています。

「人間が造られたのは、主なる神を賛美し、敬い、仕えるためであり、こうすることによって、自分の霊魂を救うためである。また、地上の他のものが造られたのは、人間のためであり、人間が造られた目的を達成する上で人間に助けとなるためである。」

 少し難しい表現ですが、つまり人間は神を大切にし、神の御旨に従って生きるように造られたということです。それ以外に、自分の霊魂を救う道はないとイグナチオは言います。さらにイグナチオは、地上の他の被造物についても言及しています。世界が存在する目的は、人間が神を讃えるためだというのです。世界は神を愛するために造られましたが、人間以外の被造物は神を愛することができません。その意味で人間は世界の頂点であり、人間が神を愛し、讃えるときに世界の創造の目的が達成されると言えます。「地上の他のものが造られたのは人間のため」という言葉は、そういう意味です。決して、人間が世界を自分勝手に使っていいという意味ではありません。むしろ、人間は神を讃える目的以外で世界を使ってはいけないというのです。

(3)マザー・テレサ
 アルバニア人だったマザー・テレサは、故郷のユーゴスラビアで紛争が起こった時、紛争の渦中にあったアルバニア人たちに手紙を書きました。その手紙の一節を紹介します。

「どうか互いにより大きな苦しみを与え合うのはやめてください。
 神は、わたしたち一人ひとりを偉大なことのために創られました。
愛し、そして愛されるために創られたのです。
 それが、いかなる苦しみもわたしたちから取り去ることのできない、いのちの意味です。
その男性、その女性、その子どもは、わたしたちの兄弟であり、姉妹なのです。」

 マザー・テレサは、はっきりと、人間は互いを愛し合うために造られたと言います。人間は、自分を捨てて隣人を愛するときに、隣人への愛を通して神を讃え、神を愛することができます。なぜなら、イエス御自身が、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:45)とおっしゃっているからです。マザー・テレサは聖書のこの箇所が大好きで、たびたび引用して、人々に教えていました。マザー・テレサの言葉から、人間は互いに愛し合い、そうすることで神を賛美するために造られたのだということがわかります。人間がそのようなものであるとすれば、私たちは誰かを憎んだり、誰かと争ったりしている限り、決して幸せになることがないでしょう。同じ神によって創造された兄弟、姉妹である人々と、互いに愛し合いながら生きていくことが、人間のあるべき姿だと言えます。

3.被造物の中で神と出会う
 創造というと、遠い昔に一度だけ起こったものと考えがちですが、それとは違う考え方もできます。創造は、今現在も起こっていると考えることができるのです。そう考えるなら、世界にあるすべてのものの中に神を見つけることができるようになります。

(1)継起的創造
 遠い昔に一度だけ創造が起こったという考え方を一回的創造というのに対して、創造は今も起こり続けているという考え方を、継起的創造と呼びます。神は全世界を、時間も、空間も、私たち自身も、すべて今創造しておられるのだという考え方です。イグナチオは『霊操』の中で次のような祈りを勧めています。

「神がいかに被造物のうちに住んでおられるかを見る。
 つまり、物質の元素には存在を与えながら、植物には生長を、動物には感覚を、
 人間には思考力を与えながら住んでおられる。
 したがって、私を存在させ、生きさせ、感じさせ、考えさせながら、
 この私のうちにも神が住んでおられる。」

 この勧めの言葉は、継起的創造ということをとてもよく説明しています。わたしたちが存在するのは、今現在も神がわたしたちのうちにいて、わたしたちに存在する力を与えてくれているから、つまりわたしたちを絶えず創造の力で満たしてくれているからなのです。その意味で、わたしたちの存在自体が神とつながっており、わたしたちの存在そのものの中に神がいるということができます。このことは人間だけに限りません。岩も、木も、水も、空気も、土も、すべて神がそのうちに宿り、存在の力を与え続けているからこそ、そこにあるのです。

(2)「活動の中の観想」
 このように考えたとき、わたしたちは日常生活で出会うすべてのものの中に神を見出すことができるようになります。前回「日常生活の背後に超越体験がひそんでいる」という話をしましたが、そのことの根拠になるのは、今言ったような形での神によるすべての被造物の創造という事実です。もしイエス・キリストとしっかり結ばれて、創造の力としてのイエスの存在をすべての被造物の中に感じ取ることができるようになれば、それ以上に幸せなことはないでしょう。そうなれば、生活のすべてはイエスと出会う喜びに満たされることになります。これは、キリスト教徒の究極的な理想だと言えるでしょう。イエズス会では、この理想のことを「活動の中の観想」と呼んでいます。活動の中でも、神を観て、想いめぐらすということです。
このことについて、マザー・テレサは次のように言っています。

「キリストへの愛、キリストのそばにいることの喜び、キリストの愛への自己放棄、
 それらこそがわたしたちの祈りなのです。
 祈りは完全な自己放棄、キリストとの完全な一致以外の何ものでもないからです。
 これこそがわたしたちを、世界のただ中にいながらも観想者とするのです。」

 世界のただ中にいても、イエスの愛、イエスの存在をすべての被造物の中に感じ、イエスと一致しているならば、わたしたちは神を観想することができるということです。そうなれば、どのような苦しみも、試練もわたしたちをくじけさせることはないでしょう。

「わたしたちが世界のただなかで、すべての問題と共にありながら観想者であるならば、
 それらの問題はわたしたちをくじけさせることはありません。」

 とマザー・テレサは言います。

4.創造の頂点としてのイエス・キリスト
 最後に手短に、世界の創造とイエス・キリストがどう関係するのかという話をします。
 人間が造られたのは神を愛するためだとたびたび述べてきました。人間の神の愛へは、イエス・キリストによって完成したということができます。それまでの人間はすべて弱さを抱えており、神に自分を完全に捧げつくすことができませんでしたし、そもそも、神がどのような方なのかも知りませんでしたが、イエスは神がどのような方であるかを完全に知り、自分の命を差し出すまでに神を愛すことができたからです。ここに、人間の神に対する愛の完成があるといえます。神にご自身を完全に差し出したイエスに、神もまたご自身のすべてを与えるほどの愛を注がれました。その意味で、イエス・キリストこそ神の創造のわざの頂点なのです。

5.まとめ
 神の創造のわざについて考えるとき、わたしたちは人間が存在し、生きることの意味を知ることができます。人間が互いを愛し合い、そうすることで神を愛するために創造されたのだとすれば、わたしたちが幸せになるための道は一つだけだということになります。互いを愛し合い、そうすることで神を愛するときにこそ、わたしたちは本来あるべき姿を取り戻し、完全な喜び、幸せ、そして平和に到達することができるのでしょう。

《参考文献》
①聖アウグスティヌス、『告白』、岩波文庫、1976年。
②聖イグナチオ・デ・ロヨラ、『霊操』、新世社、1986年。
マザー・テレサ、『わたしはあなたを忘れない マザー・テレサのこころ』、ドン・ボスコ社、2001年。