マザー・テレサに学ぶキリスト教(16)教会とは何か①「全人類の救いのための秘跡」

第16回教会とは何か①「全人類の救いのための秘跡
 古代の神学者、聖イレネオが「神の栄光は生きている人間」という名言を残しています。「神の愛の目に見えるしるし」として神の栄光を輝かせるのは、イエス・キリストを信じて生きるわたしたち人間だということです。マザー・テレサも「人々にあなたの輝きをもたらすことで、あなたを讃えることができますように」といつも祈っていました。
 神の栄光を輝かせる使命を与えられた人間の集まり、それが教会です。この教会において神の栄光が地上に輝くのです。第二バチカン公会議は、その意味で教会を「全人類の救いのための秘跡」と定義しました。教会には、神の栄光を地上の果てにまで輝かせ、人々に救いを告げ知らせる使命が与えられているのです。
 今回から3回にわたって教会についてお話ししますが、今回は「全人類の救いのための秘跡」という観点から教会を見てみたいと思います。

1.教会理解の変遷
 本題に入る前に、これまでの教会の歴史の中で、教会が自分をどのように理解してきたかを確認してみましょう。
(1)古代キリスト教に対して厳しい迫害が行われていた古代には、教会は「ノアの方舟」とか「ペトロの舟」というイメージで自分を理解していました。教会の外は罪にまみれた世界だが、教会の中にとどまり続ける限りいつか必ずイエス・キリストによって救われると考えて、人々は過酷な迫害を乗り越えていったのです。
(2)中世…中世になって教会が封建領主のような世俗的な力を持つようになってくると、「二振りの剣」というイメージが使われるようになりました。このイメージはルカ22:38に基づくものです。迫害が近づいたことを悟ったイエスが、弟子たちに財布と袋と剣を準備しなさいと言うと、弟子たちは近くにあった二振りの剣を持ってきます。それを見たイエスは「それでよい」と言われました。中世の神学者教皇は、この剣の1本が皇帝の世俗的権力であり、もう1本が教皇の聖なる権力だと考え、世俗的権力は聖なる権力に従属するべきだと主張したのです。
(3)近代…近代になって既存の権力組織に対する革命運動が起こり始めると、教会は教皇を頂点とした位階制度としての自己理解をより大切にするようになっていきます。その中で使われたイメージは、「完全な社会」というものです。教会は、神の恵みを仲介する制度を持った完全な組織であり、社会だということです。また、「キリストの神秘体」というイメージも、同じような意味で使われました。
 その意味での教会の中核をなすのが聖職者だったことは言うまでもありません。恵みの仲介者としての聖職者が、信徒の上に立って教会を導くというモデルは、このころ一層強固なものになりました。
(4)現代…第二バチカン公会議は「教会憲章」という文章の中で、教会は「神の民」であり、「全人類の救いのための秘跡」であると述べました。この理解に基づいて、今、教会のあり方や教会における聖職者と信徒の役割分担が見直されつつあります。

2.秘跡としての教会
(1)キリストの体
 イエスが復活後、昇天したことによって、もはやわたしたちは人間としてのイエスを目で見たり、手で触ったりすることができなくなりました。しかし、イエスは人間が目で見えないものや手で触れないものを信じにくいということをよく御存じでしたので、教会という神の恵みの体験可能なしるしを残してくださいました。その意味で、教会は「キリストの体」だということができます。
パウロが言っているように、教会は「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」(エフェソ1:23)なのです。昇天してしまった人間イエスの体の代わりに、教会は「キリストの体」として、キリストの表情、キリストのまなざし、キリストの仕草、キリストの雰囲気、キリストの共感、キリストの憐み、キリストの温かさを人々に伝えるしるしとなる使命を帯びていると言えます。マザー・テレサは、そのことを次のように表現しています。
「イエスの愛となれるように、
 イエスの共感となれるように、
 そしてお互いにとって、またわたしたちが仕える貧しい人々にとって、
 神の存在となれるように努めましょう。」

(2)全人類の救いの完成
 教会が「救いの普遍的秘跡」(教会憲章48)、すなわち全人類のための救いの秘跡であるという主張は、全人類の救いが教会によって体現されるイエス・キリストの救いによって完成されるという主張を含んでいます。全人類は、教会が伝えるイエス・キリストを通して、初めて救いの完成に到達することができるということです。その意味で、第二バチカン公会議は伝統的な、「教会の外に救いなし」という教えを堅持しているということができます。教会の外にも救いの端緒はありますが、それらは教会を通して、イエス・キリストとの出会いにおいて完成するとカトリック教会は信じているのです。
(3)全人類に開かれた教会
 全人類のための救いの秘跡であるためには、教会は全人類のために開かれたものでなければなりません。世界に対して自分を閉じ、教会の中にいる人だけ救われるという態度をとることは、秘跡としての教会にふさわしい態度ではないでしょう。「教会は全人類のための救いの秘跡である」という主張には、教会はキリスト教徒だけのためのものではなく、全人類のためのものであるというメッセージが込められていると考えることができます。「秘跡としての教会」は、必然的に「開かれた教会」でなければならないのです。
全人類に向けて開かれたものとなるために、教会は現代社会に生きる人々の素朴な疑問、人生の意味への問い、世界のあるべき姿への問いなどに答えるための努力を、誠実に続けていく必要があるでしょう。その意味で、人々と出会い、地に足をつけた思索をめぐらすことが大切です。
 ただし、その答えは言葉だけであってはいけません。その答えを、言葉だけでなく生き方で人々に示していくことが、わたしたちに求められていると思います。マザー・テレサは、生き方によって人々の人生への問いに答えたからこそ、あれほど多くの人々から慕われたのだと思います。
(4)あくまでもイエス・キリストが土台
 教会が「全人類のための救いの秘跡」だと言う場合には、教会が神の救いのしるしであるのはイエス・キリストとつながっているからだということを必ず思い出す必要があります。そうでなければ、教会自体が何か救いの力を持った偉い存在であるかのような誤解に陥る可能性があるからです。
 わたしたち自身、聖書を通して、祈りのうちにイエス・キリストに耳を傾けないならば神の恵みについては何も知らないのだという謙虚な心が必要だと思います。教会があくまでも謙虚に、しかし全人類の救いの秘跡であるという自覚を忘れることなく、福音宣教の使命を果たしていくことができるよう祈りたいと思います。

3.神の栄光を輝かせるために
 「聖性は、限られたひとたちのための贅沢ではありません。それは、わたしたちにとって単なる義務なのです。」(マザー・テレサ)
 秘跡としての教会の中で、わたしたち一人ひとりが神の輝きとなる義務を負っています。ですが、どうしたらわたしたちはキリストの輝きを放つことができるのでしょうか。
(1)自分が輝こうとしないこと
「イエスよ、すべての輝きはあなたからのものです。
 わたしたちのものではありません。
 わたしたちを通して輝いているのは、あなたなのです。」
(ニューマン枢機卿の祈り)
 マザーが毎日唱えていたこの祈りで言われている通り、輝くのは私たち自身ではありません。月の輝きが実は太陽の光の反射であるのと同じように、わたしたちの輝きも神の光の反射なのです。
 ヘンリー・ナウエンは、「人間はステンドグラスのようなものだ」とも言っています。ステンドグラスは、曇りの日に見るとガラスの破片の寄せ集めにしか見えず、あまり美しくありません。ですが、太陽の光を浴びたとき、この世のものとも思えないほど美しい光の世界を作り出します。それと同じように、わたしたち人間の砕かれた心も、神の光を浴びるときに天上の美しさを地上に映し出すことができるというのです。
 マザーを通して世界の隅々にまで神様の愛の光が届いたのは、マザーが本当に透明な人だったからだと思います。わたしたちもマザーのようにあらゆる執着を捨て、透明になっていきたいものです。マザーか目指した聖性とは、きっと心の透明性のことでしょう。
(2)イエスに心を開くこと
 わたしたちの心にイエスの光が当たっていなければ、その光を映して輝くことはできません。もしわたしたちの心の周りに、「神なんかいない」とか「自分は神から愛されていない」というような思いこみの高い壁があるなら、イエスの光をさえぎるその壁を壊してしまう必要があります。
(3)イエスの恵みで満たされること
 わたしたちの心がイエスの光で満たされるなら、その光はわたしたちを通して周りの人々を照らすことになります。それは、わたしたちの輝くような微笑み、生き生きとした仕草、暖かい思いやりなどを通して、イエスの光がわたしたちの周りにいる人々の心にも届くのです。マザーはシスターたちにいつも「あなたたちは、貧しい人たちの太陽でありなさい」と言っていました。太陽であるイエスの光を全身に浴びてイエスと一つになったとき、わたしたちもイエスのように輝くことができるでしょう。