バイブル・エッセイ(217)力ある言葉


力ある言葉
 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。(ロマ1:18-25)
 すぺての被造物の心に「神の永遠の力と神性」が現れている、だからキリスト教を知らない人たちもその罪を弁解できないとパウロは言います。キリスト教徒でない人たちにも神の真理が現されているというこの考えは、パウロに始まって2世紀のユスティヌスや、最近ではカール・ラーナーの「無名のキリスト者」説にも見られる伝統的な教えです。すべての人の心に、言葉では言い表せなくても力や性質として神の真理が示されているというのです。
 この言葉にならないものに言葉を与えたのがイエス・キリストだと言えるでしょう。イエスの生涯を通して、神はこの言葉にならないものに目に見える形を与えられました。わたしたちが教会で学ぶすべての言葉は、イエスを通して明らかにされた、本来わたしたち一人のひとりの心の奥深くに刻まれている神性の表現なのです。神への愛や隣人愛、ゆるし、信仰というような言葉で表現される何ものかは、それらの言葉を知る前からわたしたちの心の奥底に刻まれているものなのです。
 キリスト教の教えを学んだところで、もしそれが心の奥深くに記された神性に根差していないなら、それは単に頭だけの知識にすぎません。神性と結ばれたとき、初めてわたしたちの学んだ言葉は「神の言葉」としての力を持つのです。祈りの中で、心の奥底から湧き上がる神の力と言葉が一つに結ばれたとき、初めてその言葉は救いの力を持ち、福音になるのです。
 もしそうでないなら、どれだけ言葉を知っていても意味がありません。言葉を知らないけれども、言葉にならない神性に忠実に生きている人たちの方が、わたしたちよりももっとキリスト教徒らしいということがありえます。
 「神を知りながらあがめることも感謝することもせず」というパウロの言葉は、わたしたちキリスト教徒にこそより痛烈に響きます。祈りの中で心の奥底に刻まれた神の性質に気づき、それを言葉として学び、実践していくことができますように。
※写真の解説…草津白根山の山頂から。