バイブル・エッセイ(1) 偉くなりたいならば…


《マルコ9章30-35節》
  一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
 ガリラヤ湖畔を歩きながら、弟子たちはこともあろうに自分たちの中で誰が一番偉いのかということを議論していました。それを聞いたイエスの嘆きは、きっと大きかったでしょう。「あのねぇ、きみたち…」という感じで弟子たちに話し始めたのかもしれません。あるいは、この世の誘惑に負けないようにあれほど言って聞かせているのにまだ何も分かっていない弟子たちの姿を見て、哀れみを感じながらだったかもしれません。イエスは、「もし先になりたいならば、すべての人の後になり、すべての人に仕えるものになりなさい」と弟子たちに言いました。
 この言葉は、誤解しないように聞かなければいけません。人間的に読めば、人々に追従し、人々の面倒をなにくれとなく見ていれば、みんなから評価されて偉くなることができる、というふうにも読めるからです。政治家タイプの人は、そうやって偉くなる場合があるようです。
 しかし、イエスが言いたかったのはそういうことではないと思います。イエスが言ったのは、人間の目から見て偉くなるということではなく、神様の目から見て偉くなるということでしょう。人々のあいだで偉くなりたいとか、自分だけ大切にされたいとか、そういう人間的な思いを乗り越えて神様のために自分を捨てたとき、その人は神様に一歩近づくことができるのだと思います。「先になる」とすれば、それは他の人よりも早く神様と出会うことができるということでしょう。
 権力や地位を追い求める心は、決して満たされることがありません。より大きな権力を求めたり、地位を失うことを恐れて心配したり、きっと心の休まる時がないでしょう。人間は神様と出会い、神の愛の中で安らぐときにしか本当の満足を味わうことがないのだと思います。偉くなりたいという思いや、人から注目されたいという思いを捨て、ただ神様と出会うことだけを求めたいものです。
※写真の解説…4月頃のガリラヤ湖畔。ガリラヤ地方は乾燥した暑い地域なので、ガリラヤ湖畔が花々で彩られるのは1年のうちこの時期だけ。