入門講座(4) イエス・キリスト①〜受肉の神秘〜

《今日の福音》マルコ8:14-21
 遠くに出かけるために舟で沖へ漕ぎだしたとき、弟子たちはパンを持ってくるのを忘れたのに気づきました。大切な食料を忘れてしまったのです。弟子たちは狼狽し、イエスから叱られるのではないかと思っていたことでしょう。ちょうどそのとき、イエスが「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言いました。パンと聞いて弟子たちは、「ほらみろ、叱られた」と思い、食料をどうしようかと議論を始めます。しかし、これは大変な勘違いでした。
 ファリサイ派というのは、律法を重視し、律法にさえ従っていれば正しい、律法に従わない人々は罪人だと決めつけた人たちです。「ファリサイ派のパン種」というのは、そのようなファリサイ人たちの態度のことだと思われます。形式主義に陥って、神の教えをゆがめてしまうことがないようにとイエスは言いたかったのでしょう。ヘロデというのは、当時のユダヤの王で、贅沢に溺れ、権力を追い求めた人でした。ですから、「ヘロデのパン種」といのは、ヘロデのように世間的な快楽や権力に惹かれていく心のことでしょう。イエスは、世間的な欲望に惑わされて、神の教えをゆがめることがないようにと言いたかったのだと思います。
 弟子たちの勘違いに気づいて、イエスは嘆きます。食べ物のことで心配するというのは、イエスが教えていた神への全面的な信頼とまったく逆の態度だからです。パンの増やしの奇跡によってイエスは、神に信頼するならば食べ物のことなど心配する必要がないというメッセージを弟子たちに伝えたはずでした。そのメッセージが伝わっていないことに気づいたイエスは、「まだ悟らないのか」と言って嘆いたのです。

イエス・キリスト①〜受肉の神秘〜》
 前回は、世界が造られた目的や人間が生きていく意味についてお話ししました。今回は、神の創造の歴史の中で、イエス・キリストが果たした役割についてお話したいと思います。
神の救いの業の歴史の中でイエスは、神と人間が完全に出会い、愛し合うことを可能にするという決定的に重要な役割を果たしました。イエスにおいて神と人間が完全に出会ったという出来事は、伝統的に「受肉の神秘」という言葉によって表現されています。今日は、この「受肉の神秘」についてお話ししようと思います。

1.御言(みことば)とは何か?
 「受肉の神秘」が最も端的に語られているのは、ヨハネ福音書の冒頭です。

「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。・・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネ1:1-14)

神と共にあった神の「言」が、人間となりわたしたちと共に住んだ。それがすなわちイエス・キリストだったということです。では、この「言」とは一体何なのでしょうか。
(1)神の「言」
 ここで、「ことば」を「言葉」ではなく「言」という漢字で表記しているところがまず注目されます。ここで「言」という漢字一字で「ことば」と読ませているのは、神の「ことば」が人間の「言葉」、すなわち移ろいやすく、内実を伴わないこともある「言の葉」、表現される「事」(こと)の「葉」、ないし「端」であるのに対して、神の「ことば」は永遠で、内実を伴った「事」(こと)そのものだということを示すためです。人間の不完全な「言葉」とはまったく異なった、神の完全な「言」がイエス・キリストだということです。
(2)人間の自己表現
 別の視点から説明してみましょう。人間の自己表現と神の自己表現という視点です。
 人間は自分のことをどうやって知るのでしょうか。誰でも自分のことは自分が一番よく知っていると思いがちですが、実際にはそうでない場合が多々あるようです。他の人から、思いがけない自分の一面を知らされて驚いたことがある人は多いと思います。なにげなく話した一言、さりげないしぐさなどが、自分の隠された内面を表している場合があるのです。あるいは、手紙や日記、詩などを書いたり、絵を描いたり、彫刻や陶器などの作品を真心こめて作ったりしているときに、出来上がった文章や作品を見てこれまで知らなかった自分の一面を発見するということもあるようです。そうやって考えてみると、人間は自分自身をなんらかの形で表現することによって自分を知るということが言えそうです。わたしたちは自分のことをよく知らないで生きていますが、日々自分を表現することを通して、本当の自分の姿を少しずつ知っていくのです。今、自分が知っていると思っている自分も、実はそのようにして積み重ねられた自分についての知識の集積だと考えることができます。
 表現することによって自分を知ったときに、わたしたちは自分自身をもっとよく理解し、もっとよく愛することができるようになります。嫌な面が見えてきて不愉快になることもあるかも知れませんが、そのような自分さえも受け入れられた時、自分への愛はより深いものになるでしょう。
 同時に、わたしたちの周りにいる人たちも、わたしたちの自己表現を通してわたしたちのことを知るようになります。わたしたちが何も表現しないならば、周りの人たちはわたしたちのことを知ることができません。もしわたしたちのことを知らないならば、わたしたちに関心を持ったり、わたしたちを愛してくれたりすることもないでしょう。
 このように考えてくると、人間にとって自己表現というものがどれほど大切かわかります。人間は自分を表現することによって、自分自身を知り、自分自身を愛することができるし、他の人に自分を表現することによって、他の人に自分を知らせ、他の人から愛されることができるのです。
(3)神の自己表現
 このことは、神にも当てはまると考えられます。神も何らかの形で自分を表現し、対象化することによって、初めて自分を知ることが可能になるのです。自分を知るというのは、そもそもそういうプロセスなのです。もし自分自身を対象化することができなければ、自分を知るということはありえないでしょう。神が自分自身を知るとすれば、それは自分を表現し、対象化することによってだけなのです。
 もし自分を知らなければ、自分を愛することもできないでしょう。神も自分を表現し、知ることによって自分を愛することができるようになるのです。また、神が自分を表現しない限り、わたしたち人間は神のことを知りえませんし、神を愛することもできません。
 神と人間が違うのは、人間の自己表現がどれも時間と空間に制約された不完全なものであるのに対して、神の自己表現は永遠と無限の中にあって完全なものだということです。最初に言ったように、人間の自己表現が不完全な「事の葉・端」(ことのは)にとどまるのに対して、神の自己表現は「事」(こと)そのものだということです。この神の完全な自己表現こそが、「御言」(みことば)だと考えられます。「御言」を生むことによって神はご自身を知り、ご自身を愛しました。また、「御言」がイエス・キリストにおいて人間となったことによって、人間は神を知り、神を愛することができるようになったのです。
(4)イエスと神
 このようなイエスと神の関係を端的に表しているのが、ヨハネ福音書の次の言葉です。

 「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。」(ヨハネ14:7-11)

 イエスを見た人は神を見たことになる、つまり、イエスのすべてが神の自己表現だということです。イエスの言葉、声の調子、表情、仕草など、すべてが神の自己表現だったということです。神が永遠で無限の方であることを考えれば、これはとても不思議なことです。しかし、このことこそが「受肉の神秘」の核心に他ならないと思います。わたしたちには理解できない不思議な出来事によって、わたしたちは神を知り、神を愛することができるようになったのです。
 前回、人間の創造された目的は神を愛することだと言いました。そうだとすれば、わたしたちはイエスが誕生したことによって初めて、人間が創造された目的を達する可能性を与えられたということができます。キリスト教の創造理解によれば、神を知り、神を愛すること、それこそ人間が創造された目的であり、人間にとって最高の幸せ、救いにほかなりません。イエスによって初めて人間は、最高の幸せ、救いに到達することができるようになったのです。イエスの誕生によって全人類が救われたとは、そういう意味です。
(5)神の愛
 では、なぜ神はイエスにおいてご自身を地上に宿らせ、ご自身を人間にお示しになったのでしょうか。マザー・テレサは、クリスマスに全世界の協力者たちにあてた手紙の中で次のように言っています。

 「神がこの世に知らせるために天使を送った大いなる喜びの福音とは何なのでしょうか。その福音とは、神がわたしたちの一人ひとりを愛しているということです。神はご自分のひとり子を、「共におられる神」として、わたしたちの一人として、わたしたちと共にとどまらせるために送られるほど、わたしたちを愛してくださったのです。」

 神がこの世にひとり子イエスをお送りになり、神御自身をイエスにおいて全人類に示されたのは、神がそれほどまでに人間を愛していたからなのです。人間を愛し、人間と愛し合いたいと思ったからこそ、神は御自身をイエスにおいてお示しになったのです。

2.受肉の一回性
 「受肉の神秘」への信仰、神はイエスにおいて完全に御自身を表された、それゆえ神とイエスは一つであるという信仰は、そのような出来事が歴史の中で一度だけ起こったという信仰に結び付きました。唯一の神が御自身を人間の肉体と魂において完全に示すというような奇跡は、歴史の中でそう何回も起こるはずがないし、また起こる必要もないと考えられるからです。この信仰は、イエスの次の言葉によく表れています。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)

 よく「山に登る道はたくさんあるが、頂上は一つだけだ。宗教もそれと同じで、神に向かって登っていく道としての宗教はたくさんあるけれど、頂上である神は一つだけだ」というような言い方で、どの宗教も平等だという人がいます。しかし、イエスはそのような主張を拒絶し、はっきりと「わたしを通らなければ、誰も父のもとへ行くことができない」、とおっしゃいました。「受肉の神秘」への信仰から神とイエスが不可分一体と考えるならば、イエスと離れて神に出会うということはありえないのです。
 では、キリスト教を知らない人々、イエスと出会わずに生き、死んでいく人々はいったいどうなるのでしょう。彼らは神様に会うことなく終わるのでしょうか。真の救いを知らないままで終わるのでしょうか。この問題については、後期に講座2回を使って詳しくお話ししたいと思います。後期を待ちきれない方のために結論だけ先に言っておくならば、基本的に、自分の良心に従って神の前に正しい生き方をしている人は誰でも救われると考えられます。ただしその救いは、仮に本人が気づいていないにしても、イエス・キリストによる救いだということです。先に紹介した山登りの譬えを使って言うならば、「山に登る道はたくさんあるが、最後にそれらの道はすべてイエスという完全な道を通って神に到達する」ということです。

3.「イエスの聖心(みこころ)」の信心
 「受肉の神秘」についての講義の最後に、「イエスの聖心」の信心についてお話ししたいと思います。
 「イエスの聖心」は、17世紀にフランスの田舎街、パレルモニアルという所で起こったイエスの出現に由来する信心です。マルガリタ・マリア・アラコックという一人の修道女に姿をお見せになったイエスは、もし自分の聖心を信じるならば次の12の約束をかなえると言ったそうです。

(1)生活のために必要なすべての恵みを与える。
(2)家庭の中に平和をもたらす。
(3)どれほど困難なときにも彼らを慰める。
(4)生涯、特に死の間際に、わたしの聖心のなかに完全な避難所を見つける。
(5)すべての行いのうえに、豊かな祝福を注ぐ。
(6)罪人は、聖心の中に無限の憐みの源を見出す。
(7)生ぬるい霊魂は熱心になる。
(8)熱心な霊魂は、すみやかに大きな完成に到達する。
(9)聖心の御絵や御像を掲げ、崇敬する家庭を祝福する。
(10)司祭たちには、最もかたくなな心さえ感動させる力を与える。
(11)この信心を広める人は、消されることなくその名が聖心の中に書き込まれる。
(12)9ヵ月間続けて初金曜日に聖体拝領する人には、死の時に痛悔の恵みを与える。わたしに嫌われて死んだり、秘跡を受けずに死んだりすることがない。

 この信心は、当時のフランスで多くの人々から受け入れられました。そして、マリア・アラコック修道女の指導司祭がクロード・ラ・コロンビエールというイエズス会員であったこともあり、この信心を広める使命がイエズス会に与えられることになりました。聖心女子大学を経営していることで有名な聖心会という修道会がありますが、あの修道会の名前も「イエスの聖心の信心」に由来しています。特に12番目の約束は有名で、今でも初金曜日のミサという形で残っています。六甲教会でも、毎月最初の金曜日には朝10時から特別なミサをしていますが、それは「イエスの聖心の信心」に由来するものです。鷹取教会に、震災で焼け残った有名なイエスの像がありますが、あの像も「イエスの聖心の信心」を表した像です。
 さて、この信心ですが、一体なぜ心臓に象徴されるイエスの心を特別扱いして崇敬するのでしょうか。あの血を流したイエスの心臓の像や絵は、どうも日本人にはなじみにくいような気もします。
 この信心も、さきほどの自己表現についての考察から理解することができます。まず、人間の体は魂の表現だという前提から出発します。体に現れた表現を見て、わたしたちは魂がどのようなものなのかを知るからです。しかし、体のすべての部分が同じように魂を表しているとは考えられません。足よりは手が、手よりは顔が、よりその人の魂を表すでしょう。そのように考えたときに、人間の魂をもっともよく表すのは、その人の心だと考えられます。17世紀のヨーロッパ人たちは、心が心臓に宿ると考えていましたので、心臓に象徴される人間の心こそ、その人の魂を最もよく表すものだと考えました。
 そうだとすれば、イエスの魂、神の愛そのものであるイエスの魂を最もよく表すイエスの体の部分は、イエスの心の座としての心臓だということになります。イエスの心臓、すなわちイエスの心に触れることで、人間は神の愛に触れることができるのです。もしイエスに心がなければ、わたしたちは神の愛に触れることができなかったはずです。イエスの心があったからこそ、わたしたちは神の愛に触れ、神が「愛の神」であると知ることができたのです。この大きな恵みへの感謝を示しているのが「イエスの聖心の信心」だと考えれば、わたしたち日本人にもなじみが湧くのではないでしょうか。今度もしどこかで心臓が描かれたイエスの絵や彫刻を見たら、このことを思い出しながら祈ってみてください。 
 ちなみに、マザー・テレサはこの信心が大好きでした。イエスの聖心だけでなく、イエスのためにすべてを捧げたマリアの聖心への信心も、とても気に入っていました。最後に、マザーが大好きだったマリアの聖心への祈りと、わたしの堅信式のときにマザーが下さったイエスの聖心とマリアの聖心の御絵を紹介して、今日の講義を終わりたいと思います。

《マリアの聖心よ》
 イエスの母であるマリアよ、あなたのこころをわたしにください。
 あなたのこころは美しく、清く、けがれなく、愛と謙遜に満ちています。
 わたしもいのちのパンの中におられるイエスを、受け取ることができますように。
 あなたが愛したようにイエスを愛することができますように。
 貧しいなかでも最も貧しい人々のこころ痛む姿のなかにおられるイエスに、
仕えることができますように。

《マザーが下さった御絵》
表面
 
裏面
 

《参考文献》
・Rahner, Karl, ‘The Theology of the Symbol’, Theological Investigations 4, Helicon Press, 1966.
・Rahner, Karl, ‘The Eternal Significance of the Humanity of Jesus for our Relationship with God’, Theological Investigations 3, 1967.
・ラーナー、カール、『キリスト教とは何か』、百瀬文晃訳、エンデルレ書店、1981年。
・『マザー・テレサ書簡集』、ドン・ボスコ社、2003年。