入門講座(6) イエス・キリスト③〜なぜ十字架が救いなのか?〜

 《今日の福音》マルコ10:28-31
 「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」とイエスは言いました。
 この箇所について、キリストに従うならば、同じキリストを信じる仲間がたくさん与えられ、さらに世界中の教会を自分の家のように感じることができるという解釈が可能でしょう。それはそれで正しいと思いますが、わたしとしてはもっと広く解釈したいと思います。
まずキリストのために自分を捨てるならば、世界中のすべての人がその人の家族になるということです。もし神に自分のすべてを明け渡し、神の心を自分の心とするならば、わたしたちにとってすべての人は同じ神によって造られた兄弟姉妹であり、家族だということが分かるでしょう。神の目から見るならば、自分が愛着を持っている肉親だけが家族ではないのです。
 またキリストのために自分を捨て、自分の家への執着を捨てるならば、世界中どこにでも父なる神がおられることに気づき、父なる神がおられるすべての場所が自分にとって家だということが分かるのではないでしょうか。イエズス会のスローガンの一つに「世界がわたしたちの家」というのがありますが、それはこの世界のどこにでも神がおられるのだから、世界全体がわたしたちの家だという意味です。

《なぜ十字架が救いなのか?》
 キリスト教にとってイエスの十字架が重要だということは、今さら言うまでもないでしょう。ですが、ちょっと待ってください。なぜ2000年前に1人のユダヤ人青年がパレスチナ地方で十字架に架けられて死んだという出来事が、今現在地球上に生きている60億人もの人々にとって、あるいはこれまでに地上に生きたすべての人やこれから生まれてくるすべての人にとって救いだと言えるのでしょうか?今日はそのことについてお話したいと思います。

1.なぜ十字架が全人類の救いなのか?
(1)贖罪か、愛の完成か?
 十字架の説明として最も一般的なのは、イエスを犠牲の子羊と考え、イエスが十字架に付けられて死んだことで人類の罪がゆるされたとする贖罪論でしょう。この考え方は伝統的なもので、アウグスティヌスやアンセルムス、マルティン・ルターなどによって主張されてきました。この説明はこの説明で正しいものだと思いますが、この説明を聞いたとき、神様は無実の人間を犠牲にしなければ人間の罪を決して赦さないような恐ろしい方なのかという印象を持つ人もいるのではないでしょうか。
贖罪論が生むこのような誤解を避けるため、キリスト教の伝統の中には十字架の意味についてもう一つの説明があります。アベラルドゥスやカール・ラーナーによって主張されている、「愛の完成としての十字架」という説明です。今回は、この説明に従ってお話ししようと思います。この説明によれば、人間と神との愛の交わりは、イエスの十字架上での死によって完成したということになります。人間の神に対する愛、そして、神の人間に対する愛の頂点が、イエスの十字架上での死だということです。
(2)イエスの神に対する愛の頂点としての十字架
 前回お話しした通り、神は人間同士が互いに愛し合うことを求める方です。ですから、神を愛し、神の教えに忠実に従うならば、人間は互いを愛し合う必要があります。神を愛すると言いながら隣人を愛さないのは矛盾であり、そのような態度をとる人は結局のところ神を愛していないということになります。神を愛するならば、わたしたちは隣人を愛さなければならないのです。
 イエスは、その意味で神への愛を徹底的に忠実な方でした。イエスが十字架上で処刑されたのは、イエスの神への愛ゆえだったということができます。聖書の箇所で確認してみましょう。
①マタイ12:9-14
 エスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。 
 この箇所から、ファリサイ派の人々がイエスを殺そうと思ったのは、イエスが何よりも人間の生命を大切にするという神の御旨に忠実だったからだということがわかります。律法を形式的に守ることが神の御旨だと主張し、律法を守れない人々を罪びと扱いすることによって自分たちの社会的地位を守っていた律法学者たちにとって、神の真意は律法の形式的な順守ではなく神の愛を実践することだと主張するイエスの存在は、自分たちの存在基盤を揺るがすものでした。だからこそ、律法学者たちはイエスを殺そうと思ったのです。マタイ23章での律法学者たちに対するイエスの批判も痛烈なものです。
②マルコ11:15-18
 エスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。 
 この箇所から、神殿の祭司長たちや律法学者たちがイエスを殺そうと思ったのは、イエスが貧しい人々を搾取する神殿の商業化に反対したからだということがわかります。当時の神殿では神殿の中だけで通用する特別な通貨が使われていたため、神殿には両替をする商人がたくさんいました。また犠牲として捧げるための動物を売る商人たちもいました。それらの商人たちは、神のそばに近づきたいと望む人々の心に付け込んで金儲けをしていたのです。そして、儲けたお金を神殿の祭司長たちに上納していたと考えられます。神を求める人々の思いを食いものにするそのような神殿のあり方に、イエスは激しい怒りを感じ、商人たちを神殿から追い出しました。神殿の通貨や犠牲の動物を買えない人々は、罪人とみなされて神に近づくことが許されないという体制に、イエスは激しい怒りを感じたのです。ですが、神殿の経済システムが否定されれば、祭司長や律法学者たちは生活することができなくなります。そこで、彼らはイエスを殺そうと思ったのでした。
 以上から、イエスが殺されたのは、イエスが貧しい人々、罪人として虐げられている人々への神の愛を貫徹したからだったということができます。イエスの裁判の場面を見ると、律法学者たちが「この男は神と自称した」とか、「神殿を壊して建て直すといった」とか様々な理由でイエスを糾弾していますが、それらは表向きの理由に過ぎず、結局のところイエスの実践した神の愛が自分たちの生活を揺るがすという理由だけで彼らはイエスを殺そうとしたのだと思います。
 そのような律法学者たちの意図を見抜いていたイエスは、裁きの場で決して自己を弁明したり、自分の立場を変えたりすることがありませんでした(ヨハネ19:10-11等)。それは、神の愛を実践し、人々を愛するという自分の使命になんの疑いも抱いていなかったからだと思われます。もし律法学者たちに迎合したりすれば、それは貧しい人々や苦しんでいる人々を裏切ることになるでしょう。ですから、イエスは最後まで神の愛を貫くため、決して律法学者たちに迎合しませんでした。その結果、イエスは十字架に付けて殺されました。イエスは最後まで神を愛し、神への愛に忠実であろうとして、自分の命さえも神に捧げたといえるでしょう。
 もう1つ注目したいのは、イエスが十字架上で自分の敵を赦したという事実です。ルカ23章34節には、イエスが自分を今まさに殺そうとしている人々に共感し、彼らのために祈ったという驚くべき事実が記されています。わたしたちは、ちょっと他人から悪口を言われただけでもその人に対して腹を立ててしまいがちですが、イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言って自分を殺そうとしている人々のために祈りました。ここに、人間が実践できる隣人愛の極致が描かれているとわたしは思います。
 以上の意味で、イエスの十字架は、イエスの神に対する愛の頂点であり、完成だということができます。神への愛を貫き通すため、イエスは十字架上で自分の命さえも神に捧げるほどに神を愛したのです。このことを、神に向けた人間の自己超越の完成と呼ぶこともあります。
(3)イエスに対する神の愛の頂点としての十字架
 そのようなイエスの愛に対して、神はこれまで人類の誰に対して示したのよりもはるかに大きな愛をもって応じました。イエスが自分のすべてを神の愛のために捧げたからです。イエスが自分の人間性のすべてを神に捧げたがゆえに、神はイエス人間性のすべてを受け止め、人間イエスを完全に愛することができました。もしイエスがご自分の人間性のすべてを差し出さなければ、神は人間のすべてを受け取って、人間のすべてを愛することはできなかったでしょう。ここに、神の人間に対する愛の完成をみることができます。
 このことは、次のようにも説明できます。例によって、マザー・テレサの言葉を引用します。
 「神はいっぱいのものを満たすことはできません。
  神は空っぽのものだけを満たすことができるのです。
  本当の貧しさを、神は満たすことができるのです。」
 「本当の貧しさ」とは、この場合自分の持っているもののすべてを神に差し出すことだと言えるでしょう。あらゆる執着や欲望、さらには自分の人生さえも神に差し出したとき、神はその人の空になった心を愛で満たすことができるということです。さまざまなものへの執着や欲望がいっぱい詰まっている心に、神は愛を注ぐことができません。この意味での「本当の貧しさ」の極致を、わたしたちは十字架上のイエスに見ることができると思います。イエスが自分の人生のすべてを神に捧げ、命さえもただ神への愛ゆえに犠牲にしたとき、神はイエスの心を御自身の愛で完全に満たされたのです。このことを、人間に対する神の完全な自己譲与と呼ぶこともあります。
(4)人間と神との愛の交わりの完成としての十字架
 このように考えてくると、イエスの十字架が人間と神との愛の交わりの完成であり、全人類の救いであるということの意味がおぼろげながら理解できるのではないかと思います。人間が造られた目的は神と愛し合うことでしたが、その目的がイエスの十字架においてついに完成に達したのです。人間が神に向けて完全に自己を超越したとき、神は人間に御自身の愛のすべてを譲与され、そこに人間の救いが完成したということです。それこそ、十字架において人類の救いが実現したということの意味に他なりません。人間イエスが神と完全な愛の交わりに入ったことによって、すべての人類もやがてイエスと同じように神との完全な交わりに入ることが約束されたとわたしたちは信じています。その意味で、イエスは全人類の救いの初穂であり、全人類の救いの約束だということができるのです。弱い人間であるわたしたちは、自分のすべてを神に捧げるほどの愛をなかなか持つことができません。しかし、イエスにより頼むならば、わたしたちはイエスと共にいつの日か神との完全な交わりに入り、本当の救いに達することができると信じています。
 わたしたち人間にとって、イエスの十字架は神との完全な愛の交わりのシンボルであり、いつの日かわたしたち自身も神と完全な愛の交わりに入ることができることの約束だと言えるでしょう。

2.殉教の精神と十字架
 今年は、イエズス会員ペトロ・カスイ岐部と日本の187殉教者が列福される記念すべき年です。殉教の意味についてはさまざまな議論がありますが、はっきり言えるのは、彼らの殉教の姿は十字架上で神のために自分の命までも捧げたイエス・キリストの姿とぴったり重なるということです。殉教者たちもイエスと同じように、貧しい人々や苦しんでいる人々が虐げられる世の中はよくないと考え、地上に「神の国」を始めることを目指しました。それゆえ、当時の政府からうとまれ、処刑されることになったのです。彼らもイエス同様、神への愛を捨てる機会を与えられましたが、神への忠実さを守るため決してこの世の権力に迎合することがありませんでした。これから自分を殺そうとする人々に、わたしはあなたたちを赦しているから安心して殺すようにと言って死んだ人までいたそうです。そのような死に方をした殉教者たちを、教会が福者や聖者として讃えるのは、ある意味で当然のことと言えるでしょう。
 神はどのような罪も赦してくださる方だから、殉教せずに転んだとしてもよかったのにという議論もあります。それはもちろんそうだと思いますが、しかしそのような神の寛大さが殉教者たちの命がけの信仰の意味を少しでも減らすことはないでしょう。自分のすべてを捨てて神への愛を全うした殉教者たちが、殉教と同時に神の完全な愛に満たされ、救いに達したということには疑いがないように思われます。

3.日々の生活の中で十字架を生きる
 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイ16:24)
 イエスは、イエスに従いたいと望むすべての人に、十字架を背負って従うように求めました。これまでお話ししてきたことから、日々の生活の中で十字架を背負うとは、日々の生活の中で神への愛のために自分を捨てることだと言えるでしょう。それは、隣人愛のために自分の執着や欲望を日々放棄していくということであり、自分自身を日々乗り越えながら神に向かって成長していくということです。より具体的には、自分のプライドを捨てて家族や友人たちと仲良くやっていくことであり、自己実現よりも家族や友人への奉仕を優先することであり、他人を、自分を激しく攻撃し続けているような人さえも含めて赦すということだろうと思います。それこそが日々、イエスの十字架を背負って生きるということであり、殉教者たちの精神に倣って生きるということでしょう。そのような生き方をするために必要な力を、十字架上の主がわたしたちに与えてくださるよう祈りたいと思います。

《参考文献》
・ラーナー、カール、『キリスト教とは何か』、百瀬文晃訳、エンデルレ書店、1981年。
・Rahner, Karl, ‘The One Christ and the Universality of Salvation’, Theological Investigations 16, trans.David Morland, Crossroad, 1983.
・『愛する子どもたちへ マザー・テレサの遺言』、ドン・ボスコ社、2000年。