バイブル・エッセイ(23) 収穫の主


もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。(マタイ21:33-40)

 この話で「ぶどう園」と言われているのは、神が選んで愛した民であるイスラエル民族のことでしょう。そして、「収穫」とはイスラエル民族が悔い改めて神に立ち返ること、回心した彼らの魂のことだろうと思います。「主人」である神様は、人々の魂が御自分のもとに立ち返ることを望み、イスラエル民族を神様のもとに導く「農夫」として神殿の祭司たちを任命しました。ところが、「農夫」である祭司たちは、神様が「僕」である預言者たちを送って人々の魂を神に立ち返らせようとすると、怒って彼らを殺してしまいました。人々が自分たちに向ける尊敬の心や、自分たちのところにもってくる捧げ物を、神様に返すのを惜しんだのです。祭司たちは、人々の心や捧げ物を自分のものにしようとしたのです。最後に神様は、「自分の息子」であるイエス・キリストを地上に送りましたが、祭司たちはイエス・キリストを殺そうと企てました。
 この話を現代にあてはめるならば、まず第一に、「ぶどう園」は教会で「農夫」は司祭だと考えられるでしょう。司祭叙階の恵みを受けてから、わたしもときどきこの物語の「農夫」たちが感じたような誘惑を感じることがあります。ミサを立てているときや告解を聞いているときなどに、「いい説教をしてみんなから尊敬されたい」とか「立派な神父さんだと思われたい」というような思いが湧いてくることがありますが、そう思っているときわたしの心の底には、本当は神様のもとに導くべき信者さんたちの心を自分に導きたい、信者さんたちの心を自分のものにしたいという気持ちがあるのです。これは大きな誘惑だと思います。
 さらに広く解釈すれば、「ぶどう園」はこの世界全体で、「農夫」はこの世界に福音宣教のために派遣されたわたしたち信者の一人ひとりだと考えることもできるでしょう。信者の一人ひとりは、福音を人々に告げて人々の魂を神様のもとに導く祭司としての役割を担っているからです。人々に福音を告げ知らせようとするとき、あるいは神様のためと言って何かよいことをしようとするとき、わたしたちは心のどこかで自分の利益を考えていないでしょうか。神様のため働きで得られたものを、神様に返さずに自分のポケットに入れてしまおうとする思いがないでしょうか。
 神様のために働くことで得られた収穫は、一つ残らずすべてイエス・キリストに返したいものです。もし収穫をすべてイエスに返すならば、イエスはわたしたちに必要なすべてのものを与えてくださるでしょう。
※写真の解説…収穫のときを待つさつま芋畑。