フォト・エッセイ(44) 祈りの輪


 以前に紹介した静岡の「ラルシュ・かなの家」で、初ミサを立てさせてもらった。修練が終わってすぐに実習をさせてもらって以来、「かなの家」とは8年以上の付き合いになる。この数年は、毎年夏になると「帰省」のような感覚で遊びに行っている。神学生時代にはたくさんの試練があり、苦しいことも多かったのだが、「かなの家」の仲間たちは行くたびごとにあたたかい笑顔でわたしを迎え入れてくれた。どんなに苦しいときでも、仲間たちからたくさんの力をもらって東京に帰ることができた。叙階に到達するまでに、「かなの家」の仲間たちからはどれだけ支えられたか分からない。
 今回、初ミサを立てているあいだに、これまでの「かなの家」での体験が次々と胸中をよぎった。初めて行って右も左も分からないわたしを、暖かく受け入れてくれた仲間たちの笑顔。生まれて初めて田んぼの草むしりをしたこと。石鹸工場で働いたこと。新しい家を建てるために、みんなで一緒に重い柱や建材を運んだこと。一緒にプールで泳いだこと。花火大会に行ったこと。海を見に行ったこと。盆踊りを踊ったこと。黙想会をしたこと。思い出せばきりがないほど、たくさんの思い出がある。ミサを立てながら、それらの一つ一つが、暖かな光を発しながらわたしの心のなかに次々と浮かんでは消えて行った。
 それらのことを思い浮かべながら、心からの感謝に満たされて奉献文を唱えているうちに、なにか不思議な感覚がわたしの全身を包んだ。御ミサのあいだわたしたちは祭壇をまるく囲んで座っていたのだが、祭壇を囲んでいたみんなの心が一つに結ばれて、大きな光の輪を作ったような感覚とでも言えばいいだろうか。言葉でうまく言い表せないが、祭壇を囲んでいた「かなの家」の仲間とスタッフたち、六甲教会から一緒に行った若者たち、そして隣で御ミサを共同司式してくださった浜田壮久神父様とわたしの心が、そのとき確かに祈りで一つに結ばれたような気がした。たくさんの弱さを抱え、神様の前ではとるに足りないわたしたちを聖霊の力が包み込み、神の愛の中で一つにしてくれたようだった。
 その不思議な感覚で包まれているうちに、わたしの心のなかに「今こそ、みんなに恩返しをするときだ」という思いが湧き上がってきた。御ミサは、わたしたちに限りない力と恵みを与えてくれる。そのことを実感したとき、わたしの使命は御ミサを立てることでみんなの思いを一つにつなぎ、聖霊の力がみんなのを満たすための手助けをすることだ。これからは、御ミサを立てることでみんなに恩返ししよう、と思ったのだ。
 御ミサが終わった時、わたしと「かなの家」の結びつきが今までと比較にならないくらい堅固なものになったように感じた。初ミサの中で生まれた祈りの輪に結ばれ、これからも「かなの家」の仲間たちと共に歩んでいきたいと思う。




※写真の解説…1枚目、「かなの家」のグループホーム「つどい」。来年、取り壊される予定。2枚目、「かなの家」の農園。3枚目、農作業を手伝う六甲教会の若者たち。