フォト・エッセイ(64) 近江散策②


 近江八幡は古い商家の家並みで有名なのだが、そこに行くまでに駅から20分ほど歩かなければならない。バスも出ているが、日中は1時間に2本くらいしか便がないので歩いた方が速い場合も多い。わたしがバス停に着いたときは、あいにく前のバスがつい先ほど出たところだった。それで、仕方がないので歩くことにした。
 日本中どこにでもあるような市街地の県道をてくてくと歩きながら、朝のミサで読んだ福音のことを考えていた。イエスの言葉に従って生きる人は堅固な岩の上に家を建てた人に、そうでない人は泥や砂の上に家を建てた人に似ているという話だ。わたしの司祭職はいったいどのような土台の上に建てられているのだろうかと、実は近江に向かう電車の中からずっと考えていた。
 そんなことを考えた一つの大きな理由は、一昨日わたしより10年くらい前に叙階された司祭と話していた時に「あなたは何に司祭職の喜びを見出しているのか」と尋ねられたことにある。もし司祭職の中に揺るぎのない喜びの源を発見できないならば、司祭職を長く続けることはできない。今のあなたには、それがあるのかと聞かれたのだ。その神父様自身は、心を病んだ病者たちと深くかかわっており、それが自分にとっての揺るがぬ喜びの源だという。あらためてそんなことを問われて、戸惑わざるをえなかった。今のわたしは、いったい何を土台にして司祭職を生きているのだろうか。その土台は堅固な岩なのだろうか、それとも脆弱な土砂なのだろうか。
 神学生時代にそのことを聞かれたら、すぐに返事ができたかもしれない。神学生時代のわたしにとって喜びの源は、神学生共同体の仲間たちとの交わり、勉強、ロヨラ・ハウスでの奉仕、そしてそれらすべてを支える祈りだった。どれも、揺るぎようがないほどしっかりした土台だ。それらに支えられていたからこそ、苦節10年を経てなんとか叙階にまでたどり着くことができたのだと思う。







※写真の解説…近江八幡の家並みと紅葉。