バイブル・エッセイ(780)役割を果たす


役割を果たす
 ファリサイ派に属している人々がヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。(ヨハネ1:24-28)
 自分は救い主でないばかりか、「その履物のひもを解く資格もない」と洗礼者ヨハネは言います。洗礼者ヨハネは、自分が果たすべき役割をしっかりとわきまえていたのです。洗礼者ヨハネに与えられた役割、それは人々に悔い改めを説くこと。キリストがまっすぐに入ってゆくことができるように、人々の心を整えることでした。
 昨日、幼稚園のクリスマス会で聖劇を見ました。毎年2-3回は見るのですが、何度見ても子どもたちが演じる聖劇ほど感動的なものはありません。例えば、お星さまの役の子どもは、両手を広げ、全身を震わせて星の輝きを表現します。宿屋の主人の役の子どもは、精一杯の皮肉を込めて「お前さんたち、お金があるのかい?」と聖家族を追い払い、天使の役の子どもは、まるで本当に天から響いているかのような優しい声でマリアに話しかけます。ついこの間まで幼稚園に来ることさえ嫌がって泣いていた子どもが、自分の限られた力をすべて出し切って、晴れの舞台で自分の役割を果たしているのです。それも、すべては神様に喜んでもらうため、見に来てくれた家族に喜んでもらうためなのです。
 自分の役を演じるだけではありません。セリフを忘れてしまった子どもがいれば、すぐに隣の子どもがセリフを教え、一人だけ舞台に取り残されてしまった子どもがいれば、すぐに仲間が迎えに行きます。互いに助け合いながら、力を合わせてすばらしい劇を作り上げてゆくのです。そんな子どもたちの姿を見ながら、わたしは確かに子どもたちの心にイエス・キリストが誕生したことを感じます。誰かの幸せのために自分を差し出すとき、子どもたちの心に生まれる愛。それこそが、イエス・キリストなのです。聖劇が終わるころには、登場したすべての子どもたちの心に、確かにイエス・キリストが誕生しています。観客席から惜しみなく送られる拍手は、単に劇がうまくいったことへの拍手ではなく、子どもたちの心に確かにイエス・キリストが生まれたことを讃える拍手なのです。
 クリスマスを前にして、わたしたちも自分自身に与えられた役割を思い出したいと思います。神様から一人ひとりに与えられた役割、父親として、母親として、社会人として、あるいは教会の一員としての役割を果たす中で、わたしたちの心にイエスがお生まれになるのです。わたし自身について言えば、神様から与えられたのは、神父として一人でも多くの人に神様の愛を届けること。自分に与えられた力の限りを尽くして福音を伝えるときにこそ、わたしの心にイエス様がお生まれになるのだと思っています。
 役割を精一杯に果たしたとしても、誰も拍手喝采してくれる人はいないかもしれません。ですが、クリスマスにみんなが集まって祈るとき、一人ひとりの心に生まれたイエスの愛が、祈りの中で一つになるとき、天国では神様や天使、聖人たちがわたしたちに拍手喝さいを送ってくれているに違いありません。クリスマスまでの日々の中で、自分の役割をもう一度しっかり見つめ直し、より一層真摯に取り組んでゆきたいと思います。