入門講座(24) ニューエイジの挑戦

《今日の福音》ヨハネ1:35-42
 洗礼者ヨハネの弟子たちが、洗礼者ヨハネの言葉を聞いてイエスの後についていき、イエスと共に一夜を過ごすという場面です。この場面は、入門式の中で読まれるのに本当にふさわしいと思います。
 今日、入門式を受けた方々は、今まさにこの弟子たちと同じ状態にあると思います。なんらかのきっかけでイエスのことを知り、魅力を感じてもっと知りたいと思った。だがどうしていいか分からないので、とりあえずイエスの後について行く、そういう状態です。入門した方たちは、どうぞ教会に来てしつこくイエスの後を追いかけてもらいたいと思います。教会には、イエスがおられます。教会でイエスと共に留まり、イエスがどのような方であるかを知ってください。
 入門式に出席してくださった信者のみなさんには、入門して求道者となったみなさんがイエスと出会うのを手伝う使命があります。これから求道者のみなさんは、信者たちの言葉、行い、表情などを通してイエスと出会っていくことになるのです。信者のみなさんが、イエスと共に神様の愛の「しるし」となるときに、求道者のみなさんはこの道を迷いなく歩んでいくことができるでしょう。

ニューエイジの挑戦》
 みなさん、ニューエイジという言葉を聞いたことがありますか。英語で「新しい時代」を意味するこの言葉は、現代における一つの思潮を指す固有名詞になっています。本棚でキリスト教、あるいは宗教の棚の隣に、「ニューエイジ」とか「精神世界」という名前の棚が並んでいるのを見たことがないでしょうか。
 ニューエイジは、たくさんのいい点も含んでいるのですが、基本的にキリスト教とはまったく相いれない考え方です。ですが、残念なことに多くのキリスト教徒たちが知らない間にニューエイジの影響を受け、キリストの教えから離れていっているという現実があります。今回は、このニューエイジが何なのかについてお話ししたいと思います。

1.水瓶座の時代
(1)「新しい時代」
 ニューエイジという言葉は、占星術に由来しています。詳しいことは知りませんが、それまで2000年のあいだ黄道上で魚座の領域を動いてきた春分点が、20世紀の後半に水瓶座の領域に入ったそうです。これが「新しい時代」の到来を意味していると、ある人々は考えました。魚は古代からキリスト教のシンボルであることから、これまでの2000年間はキリスト教が支配する時代だった。しかし、その時代が終わり、今や水瓶座が支配する「新しい時代」が来た、というのです。
(2)水瓶座の時代
 彼らの主張によれば、魚座の時代には人々の魂がキリスト教権威主義によって抑圧され、支配されていました。しかし、水瓶座の時代にはキリスト教の権威が崩壊し、人々はキリスト教による抑圧から解放されて真の自由、魂の覚醒に到達します。これからは、真の自己に目覚めた個人が、キリストや教会なしで直接に宇宙エネルギーとしての神と交信する時代だというのが彼らの主張です。

2.ニューエイジの特徴
 次に、ニューエイジと呼ばれる思潮の主な特徴を見ていきたいと思います。
(1)全体性の強調
 彼らは、あらゆることにおいて全体的に考えることを主張します。その一つの現われが、西洋医学の否定です。西洋医学は人間を全体として見ず、病気の部分だけを分断して考えるから間違っているというのです。
 この考え方は宗教にも及びます。既成宗教は、狭い教条主義によって人々を分断するから、もはや必要がない。これからは、すべての宗教を統合する真の宗教が必要だというのです。一人ひとりが真の自己に覚醒するとき、人類は既成宗教によって歪められた神ではない真の神と結ばれて一つになることができる、彼らの多くはそう考えています。
(2)グノーシス主義
 グノーシス主義とは、神についての深い知識を持つと自称しながら、神の言葉を人間の言葉に置き換えていく考え方のことです。古代に流行した考え方で、キリスト教にも影響を与えました。前教皇ヨハネ・パウロ2世は『希望の扉を開く』という本の中で、ニューエイジを「よみがえったグノーシス主義」と断じています。
 ニューエイジは、自分たちこそが神についての真の知識を持っていると主張しますが、その根拠は極めて薄弱です。それにも関わらず、限られた人間の知識を絶対とみなし、その知識に基づいてキリストが伝えた神の言葉を歪めて解釈していくのです。
(3)人間中心主義
 ニューエイジには、自己否定の考え方がありません。自分の無力さを認め、自分を否定して神に差し出すことで神の愛に満たされていくという発想がないのです。むしろ、自分の魂を瞑想などの訓練や技術によって高めていくことで、自分自身が神的な存在になることを目指します。イエス・キリストによって救われるのではなく、自分自身が救い主となって自分を救うことを目指すのです。
 このように、ニューエイジでは、自分という人間、ないし自分が師事している覚醒した指導者が最も大切にされます。その意味で、ニューエイジは人間中心主義なのです。
(4)エリート主義
 ニューエイジ的思潮には人間の知識を絶対化する傾向がありますが、その傾向はエリート主義に直結しています。人間が考案した特定の瞑想法や訓練、技術などが絶対化され、それによって目覚めない限り真の自己に目覚めることはできないと、彼らの多くは主張します。そして、目覚めていない人たちを、「低い次元に生きる人たち」と見なすのです。

3.具体例
 ニューエイジの影響を強く受けた考え方をいくつか紹介したいと思います。
(1)チャネリング
 「宇宙イタコ」と翻訳した人がいますが、恐山のイタコが死者の霊を自分に下ろして死者の言葉を語るように、宇宙霊ないし宇宙人の霊を自分に下ろして彼らの言葉を語るのがチャネリングです。自分たちの身体を「チャンネル」(通路)にするということから、この名前がついています。ニューエイジでは、この方法によって得られた知識が絶対的な真理と見なされる傾向があります。
(2)波動
 宇宙全体の波動と一致して生きることこそが幸せであり、救いだという考え方があります。波動とは、何か宇宙の秩序のようなものです。宇宙や自然、そして人間は、それぞれに特定の波動を持っており、それが乱れることから病気や不幸が生まれる。しかし、訓練や食事によって自分自身の波動をしっかり整えれば、決して病気になることも不幸になることもない、波動を信じる人たちはそう考えているようです。
(3)代替療法
 権威主義的な西洋医学を否定し、それに代わる療法を提案するものです。多くのものは科学の装いをもった疑似科学によって根拠づけられていますが、その根底にあるのは精神が健康であれば身体も健康であるはずだという素朴な信仰です。中国の「気功」の伝統や、インドの「チャクラ」の考え方を応用するものが多く、その道を極めたと称する人たちがそれぞれに独自の論理を展開しているようです。
(4)ある種の環境保護運動
 環境保護運動はそれ自体としてよいものですが、中には極端な主張をするものがあります。人間はクジラやイルカ、森林の木々などと共にガイア(地球)という巨大な生命体の一部にすぎない。クジラもイルカも木々も、人間と同じ尊厳を持っているというような主張の背景には、自分たちはガイアの意思を知っているという素朴な信仰が存在しています。
(5)ある種の性格判断や占い
 古代の伝統に根ざしていると称する性格判断や占いの中には、人間の知識を絶対化するニューエイジ的要素が含まれています。キリスト教では、人間はイエス・キリストとの出会いによっていつでも根底から変えられうると考えますから、その人の性格が人間の考えだした特定の性格類型に固定されるということはありえません。人間の性格は、イエスとの出会いによって決定されるのであって、性格の類型化によって決定されるものではないのです。

4.キリスト教の特徴
 最後に、ニューエイジの特徴との比較の中で、キリスト教がどのような特徴を持った宗教なのかをお話ししたいと思います。
(1)個別性・歴史性の強調
 ニューエイジが全体性を強調するのに対して、キリスト教は個別性と歴史性を強調します。神は、歴史の中で人類全体の救いの業を行われる方であって、歴史を無視して個人を救う方ではないとキリスト教は考えています。
 前回、救済史という考え方を紹介しましたが、神はユダヤ教の歴史の中で人間の発達段階に合わせて救いの業を行い、その頂点としてイエスを地上に遣わしたのです。キリスト教は、神の救い業の頂点としてのイエス・キリストの中にのみ真理を見出します。ですから、キリスト教徒にとって、キリスト教の歴史を越えた神などは存在せず、従って「すべての宗教を越えた真の神」などというものも存在しないのです。わたしたちは、歴史的存在としてのイエス・キリストの中にのみ救いと真理を見出します。
(2)「神の言葉」の尊重
 ニューエイジが人間の言葉を絶対化するグノーシス主義的傾向を持つのに対して、キリスト教では「神の言葉」、すなわちイエス・キリストだけが絶対化されます。
 例えば、人間的に考えれば苦しみは悪であり、よい宗教が人間に苦しみを求めるということは考えられないでしょう。しかし、キリスト教は、日々の生活の中で他者を愛するようにと要求します。自分とまったく違う他者を受け入れ、愛することには必ず苦しみが伴いますから、その意味でキリスト教は人間に苦しみを求めているのです。その苦しみの向こうに、真の愛を見つけるのがキリスト教だとわたしは思います。感覚的な心地よさだけを求める技法や考え方は、その意味でまったくキリスト教的ではありません。
(3)キリスト中心主義
 ニューエイジが自分自身を自分の救い主とみなすのに対し、キリスト教はただイエス・キリストだけを救い主とみなします。人間が救われるとすれば、それは完全に神であると同時に完全な人間でもあるイエス・キリストによってのみだとキリスト教は信じているのです。
 修業や訓練を積むことによって人間の霊的ステージが上がっていくというような考え方は、キリスト教になじみません。そのような考え方は、自分自身に自分を救う力があるという信仰を背景に持っているからです。どれほど修業を積んだ人であっても、キリストから離れるならばあっと言う間に転落するし、修業を積んでいない人であってもキリストに自分のすべてを委ねるならば救われる、それがキリスト教の考え方だと思います。
(4)すべての人の救い
 ニューエイジが自分たちをエリートとみなす傾向を持つのに対して、キリスト教ではどれほど信仰生活を積んだ人であっても、自分を神から救われなければならない哀れな罪人とみなします。そして、自分と同じように罪の中で苦しむすべての人が、イエス・キリストによって救われることを目指すのです。

5.まとめ
 最初にも言いましたが、ニューエイジキリスト教徒の陥ってきた過ちを正す、よい点をたくさん含んでいます。ですが、その根本的な発想において、キリスト教とは相いれないものなのです。
 ニューエイジの挑戦に真摯に耳を傾ける必要はあるでしょう。彼らが、わたしたちの忘れてしまっていたキリストの教えを思い出させてくれることもあるからです。ですが、そのようにして過ちを正しつつも、わたしたちはキリスト教徒としてイエス・キリストの教えにどこまでも忠実に生きることを目指すべきだと思います。

《参考文献》
教皇庁文化評議会、教皇庁諸宗教評議会、『ニューエイジについてのキリスト教的考察』、カトリック中央協議会、2007年。