入門講座(25) 諸宗教との出会いⅠ

《今日の福音》マルコ6:33-34
 年末にある大学の先生が書いた文章を読んでいたところ、パンの増やしの場面をとりあげて「キリスト教徒はこんな手品のトリックのような話を信じているのか」と書いてありました。まるで、頭がどうかしているのではないかというような書き方です。
 この場面に疑問を感じる人は、意外と多いようです。わたし自身も、これがどのような出来事だったのかはっきりとは分かりません。はっきりしているのは、イエスの弟子たちがこの出来事をイエスにふさわしい出来事と考え、聖書に記したということだけです。信じられないくらいたくさんの人たちがイエスによって飢えや渇きを癒されたという記憶が、この物語の背景にあることは間違いないでしょう。また「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて」という記述は、最後の晩餐でのイエスの言動と重なるもので、初代教会でのミサの式文にもなっていたと考えられます。この物語は、当時の人々のイエスに対する愛の表現として読まれるときに、より深い意味を持つのではないでしょうか。

《諸宗教との出会い》
 諸宗教との出会いは、貧しい人々との出会いと並んで20世紀のキリスト教神学に大きな影響を及ぼした出来事です。キリスト教以外の宗教と初めて真剣に向かい合ったキリスト教は、それらの宗教を信じる人々の救いについて何かを語らざるをえなくなったのです。今回と次回で、キリスト教が諸宗教を信じてるい人たちの救いについてどのように考えているのかをお話ししたいと思います。

1.現代人の疑問
 諸宗教の存在と出会うとき、キリスト教徒が一番頭を悩ませるのがキリスト教の唯一絶対性と諸宗教との共存が両立できるのかという問題です。もしキリスト教が本当に唯一絶対であるならば、他の宗教は間違っているか、あるいは必要がないものということになりかねません。諸宗教からも、キリスト教の唯一絶対性主張に対して疑問が投げかけられました。諸宗教だけでなく、現代の哲学者たちもキリスト教の唯一絶対性主張に疑問を投げかけています。
(1)状況の変化
 19世紀に至るまで、欧米のキリスト教は諸宗教の存在に向かい合う機会があまりありませんでした。ところが19世紀になると、ヨーロッパの植民地の増加、移民や出稼ぎ労働者の増加、あるいは船舶による旅行者の増加などによって、キリスト教は他の宗教と真剣に向かい合わざるを得なくなりました。その中で、「キリスト教を知らない彼らは、本当に救われないのだろうか」という疑問がキリスト教徒たちの間に浮かび上がってきました。
(2)各地で頻発する宗教紛争 
 各地で頻発する宗教紛争の中には、それぞれの宗教が自分の絶対的正義を主張した結果として起こっているものもあります。そのような宗教紛争の本質を見抜いた人たちの中からは、唯一絶対性を主張する宗教は間違っているのではないかという疑問の声が上がりました。最近流行った『バカの壁』という本の中で、養老猛氏もこの観点から一神教に対して痛烈な批判を加えています。
(3)ポスト・モダンの哲学
 ポスト・モダンの哲学は、キリスト教文化を背景としたヨーロッパの価値観を完全に相対化しました。ヨーロッパの文化と比較して、アジアやアフリカの文化が劣っているということはないということを論理的に説明したのです。その結果、ヨーロッパ的な理性や合理性は、一つの神話にすぎないと考えられるようになり、その背景となったキリスト教も数ある世界観の中の一つに格下げされてしまいました。キリスト教も、仏教やイスラム教、マルクス主義やその他の宗教、思想、価値観と並ぶ「大きな物語」の一つに過ぎないと多くの人が考えるようになってきています。
→「大きな物語」というのは、①根拠はないけれども共同体の中で広く共有された、②その中に自分を位置付けることで生きる意味を見つけることができるような物語のことです。「いい大学、いい会社に入れば幸せになれる」というような人生観も「大きな物語」の一つと言えるでしょう。ポスト・モダンの哲学は、すべての「大きな物語」は根拠のない物語にすぎず、唯一絶対ではありえないと論じています。

2.4つの考え方
 現代人の心に浮かんだこれらの疑問に対して、キリスト教はどう答えることができるのでしょうか。大きく言って、4通りの考え方があります。
(1)絶対主義
 絶対主義とは、イエス・キリスト以外に救いはないと考える立場です。
①根拠
 ここでは、カール・バルトによる説明を紹介しておきましょう。バルトによれば、キリスト教を含むすべての宗教は、「人間の言葉」によって作られた偶像崇拝に他なりません。ですが、キリスト教が他の宗教と違うのは、自分たちの宗教が罪深い宗教であることを自覚し、ただ「神の言」すなわちイエス・キリストだけに耳を傾けていることです。イエス・キリストに耳を傾ける限り、バルトはキリスト教だけは他の宗教と違う「真の宗教」になりうると主張します。
②諸宗教への態度
 この立場からは、諸宗教に救いを見出すことはできません。イエス・キリストに耳を傾けないすべての宗教は、偶像崇拝と見なされるからです。諸宗教と対話するとすれば、それは諸宗教を信じる人たちを偶像崇拝の闇から解放するためです。
③優れた点
 この立場が優れているのは、すべての人間的な考えを偶像として相対化し、ただイエス・キリストだけを絶対化している点です。人間は、結局のところ自分の力では救われることができず、ただ神の力によってのみ救われるのだということを、この立場ははっきりと思い出させてくれます。
④限界
 ですが、この立場には次のような疑問が寄せられています。
鄯.神様は、全人類を救う方であるはずだ。イエス・キリストを知らないなら救われないというのは、あまりに偏狭な考え方ではないか。
鄱.なぜイエス・キリストだけが「神の言」だと言えるのか。ブッダマホメットも「神の言」だったとは考えられないか。
鄴.この立場に立つならば、諸宗教とは対立せざるをえず、紛争の発生を防げないのではないか。神様は人間が争い合うのを望まないはずだ。
(2)包括主義
 包括主義とは、諸宗教にも救いがあることを認めるが、その救いはまだ不完全なものであって、イエス・キリストと出会うときに初めて完全になるという考え方です。
①根拠
 神様は全人類を救うためにイエス・キリストを遣わしたのですから、イエス・キリストを知らない人たちにも何らかの形で救いの手を差し伸べると考えられます。諸宗教の中にある救いは、伝統的に「福音の種」(「ロゴスの種」とも)と呼ばれ、成長してイエス・キリストに出会うとき完全になると言われています。カール・ラーナーはさらに、すべての人間の心は神に向かって開かれている、それゆえすべての人間が救いに招かれていると主張しています。
②諸宗教への態度
 諸宗教の中にあるすべての真理を、神に由来するものとして尊重します。諸宗教と対話することによって、キリスト教徒が忘れていた真理を他の宗教の中に発見する可能性さえあります。ですが、イエス・キリストこそが唯一の完全な救いであることを宣言することも止めません。なぜなら、それこそがキリスト教アイデンティティーに他ならないからです。
③優れた点
 全人類を救いたいという神様の意志と、1人子イエスを遣わすことでこの世を救いたいという神様の意志を、矛盾なく理解することができます。この立場から諸宗教との対話を行うことで、キリスト教がより豊かな宗教になっていく可能性もあります。
④限界
 絶対主義と同じで、この立場もキリスト教を諸宗教の上に置いているという限界があります。完全に対等な立場での諸宗教との対話は不可能でしょう。
(3)相対主義
 すべての宗教を相対的に見る立場です。キリスト教は、他の宗教と並ぶ救いへの一つの道と見なされます。「山に登る道はたくさんあるが、頂上は一つ」というような言葉で表現されることもあります。
①根拠
 頂上が一つであることの根拠は、人間の認識能力の限界や、人類に共通の体験、人類に共通の倫理的課題などに求められます。
鄯.哲学的根拠…哲学的には、どれほど考えても人間は超越存在としての神自体を知ることができないので、完全に神を知っているという主張を誰もできません。どの宗教も、超越存在に向かう方向をある程度まで指し示す矢印のようなものだと考えられます。
鄱.体験的根拠…体験的には、人間の究極的な宗教体験はどの宗教でも同じなのではないかという議論があります。仏教でもイスラム教でもキリスト教でも、究極的神体験は「今ここで、わたしと神と世界が一つになっている」という体験なのではないかと言う人もいます。宗教体験をアルコールに酔うことに譬えて、「酒で酔うか、ウィスキーで酔うか、ブランデーで酔うかの違いはあっても、酔ってしまえばみな同じ」と言う人もいます。
鄴.倫理的根拠…人類は、核兵器の問題、環境問題など一緒に解決していかなければならない問題をたくさん抱えています。それらに対する答えは、宗教の違いを越えて一つのはずです。
②諸宗教への態度
 どの宗教も、基本的に対等であると考えます。共にまだ知らない真理を探していこうという態度で、諸宗教との対話が進められます。
③優れた点
 この立場に立つならば、優劣をめぐって宗教同士が争い合うことがなくなります。諸宗教が共存共栄していくことが可能になるかもしれません。
④限界
 一見とてもいい考えに見えますが、この考え方もいくつかの困難な問題を抱えています。
鄯.なぜこの立場の人たちは、自分たちが諸宗教を越えた究極的な真理に到達する道の全体像を知っていると主張できるのか。山の頂上に上り詰めた人が下を見た時にだけ言えるはずのことを、なぜ言うことができるのか。キリスト教の信仰によれば、究極的な真理に到達する道はイエス以外にないし、山の頂上に上り詰めた人もイエスしかいないはず。自分自身をイエスの立場において語るのは傲慢ではないか?
鄱.自分の宗教こそが絶対だと信じている多くの人たちにこの立場を強制するならば、「相対主義の押し付け」という自己矛盾が生じるのではないか?西洋的な平等観の押し付け、思想的帝国主義に陥る可能性がある。
鄴.「オウム真理教」のように著しく不合理で反社会的な宗教も、究極的な真理に到達する一つの道としてキリスト教と対等に見なされることにならないか。もしそうでないとしたら、この立場の人たちはどこで本物の宗教と偽物の宗教を区別するのか?選別の基準を誰が立てられるのか?
鄽.イエス・キリストを唯一絶対の救い主と宣言しないキリスト教は、もはやキリスト教ではないのではないか。
(4)現実主義
 まだ自分達は他の宗教のことをよく知らないので、今の段階では諸宗教について何とも言えないという立場です。
①根拠
 現実問題として、まだキリスト教は他の宗教のことをよく知りません。対話はようやく始まったばかりだと言えます。この段階で他の宗教に救いがあるかどうかを論じるというのは、どうも無理があるようです。
②諸宗教への態度
 対話の相手となる宗教の中に救いがあるかどうかの判断は、とりあえず留保します。その上で、相手をよく知りたいという思いだけをもって対話を進めていきます。
③優れた点
 知らない相手を裁くという愚かな行動を回避することができます。
④限界
 この考えもとてもいい考えに見えますが、いくつかの困難な問題を抱えています。
鄯.単に問題の解決を先延ばしにしているだけではないか。対話の結果、もし相手との間に共通点が何もないことがわかったらどうするのか?
鄱. 道しるべなしに旅を続けるのが不可能なのと同じで、神学的な大きな枠組みを持たずに諸宗教と深い対話をすることは不可能ではないか?
(5)まとめ
 結局のところ、どの立場もいい点と弱点を持っています。どれが一番いいかを判断することは極めて困難でしょう。次回、カトリック教会の立場、それと大部分重なるカール・ラーナーの立場、ラーナーらの立場に対して反対するロジャー・ヘイトという神学者の立場を紹介します。参考文献も挙げておきますので、どうかみなさんもよく考えてみてください。

《参考文献》
・Knitter, Paul, “No Other Name?”, Orbis Books,1985.
・Knitter, Paul, “Introducing Theologies of Religions”, Orbis Books, 2002.
・バルト、カール、『ローマ書講解 上』、小川圭治・岩波哲男訳、平凡社、2001年。
・バルト、カール、『教会教義学 神の言葉Ⅱ/2』、吉永正義訳、新教出版社、1976年。
・ニッター、ポール編、『キリスト教の絶対性を越えて』、春秋社、1993年。
・デコスタ、ゲビン編、『キリスト教は他宗教をどう考えるか』、教文館、1997年。
・古屋安雄、『宗教の神学 その形成と課題』、ヨルダン社、1985年。