第28回諸宗教との出会いⅠ〜4つの考え方
マザー・テレサは、イエス・キリストこそすべての人に与えられた救い主だと確信していましたが、ヒンドゥー教徒やイスラム教徒に対してキリスト教を押し付けることはありませんでした。「死を待つ人の家」でも、患者さんが運ばれてきて最初にすることは、その人の宗教を確認することだったと言われています。万が一のとき、その宗教のやり方で埋葬するためです。
マザー・テレサは、キリスト教以外の宗教をどう考えていたのでしょうか。キリスト教徒は、キリスト教以外の宗教を信じる人たちに対してどのような態度をとったらいいのでしょうか。
1.現代人の疑問
キリスト教以外の諸宗教を信じる人々と出会ったとき、キリスト教徒が一番頭を悩ませるのがキリスト教の唯一絶対性主張と諸宗教との共存が両立できるのかという問題です。もしキリスト教が本当に唯一絶対であるならば、他の宗教は間違っているか、あるいは必要がないものということになりかねません。諸宗教の側からも、キリスト教の唯一絶対性主張に対して疑問が投げかけられました。諸宗教だけでなく、現代の哲学者たちもキリスト教の唯一絶対性主張に疑問を投げかけています。
(1)状況の変化
19世紀に至るまで、欧米のキリスト教徒は諸宗教の存在に向かい合う機会があまりありませんでした。ところが19世紀になると、ヨーロッパの植民地の拡大、移民や出稼ぎ労働者の増加、あるいは船舶による旅行者の増加などによって、キリスト教は他の宗教と真剣に向かい合わざるを得なくなりました。その中で、「自分たちに何の過失もないままキリスト教を知らないで生きている彼らは、本当に救われないのだろうか」という疑問がキリスト教徒たちの間に浮かび上がってきたのです。
(2)各地で頻発する宗教紛争
各地で頻発する宗教紛争の中には、それぞれの宗教が自分たちの絶対的正義を主張した結果として起こったものが少なくありません。そのような宗教紛争の本質を見抜いた人たちの中から、自分たちの教義を絶対的なものとして主張する宗教は間違っているのではないかという疑問の声が上がりました。
数年前に流行った『バカの壁』という本の中で、養老猛氏もこの観点からキリスト教やイスラム教などの一神教に対して痛烈な批判を加えています。善悪を二分しない仏教的価値観に立てば、宗教紛争を回避できるのではないかというのです。
(3)ポスト・モダンの哲学
ポスト・モダンの哲学は、これまで唯一の物差しとして絶対的な価値を持っていたヨーロッパの文化や価値観を、完全に相対化してしまいました。ヨーロッパの文化や価値観と比較して、アジアやアフリカの文化や価値観が劣っているということはないということを論理的に説明したのです。
その結果、ヨーロッパ的な理性や合理性の産物である平等や人権思想、民主主義、性道徳などは、一つの「神話」にすぎないと考えられるようになり、その背景となったキリスト教も数ある世界観の中の一つに格下げされてしまいました。キリスト教も、イスラム教、仏教などの諸宗教、あるいはマルクス主義などの思想、価値観と並ぶ大きな価値観の枠組みの一つに過ぎないと多くの人が考えるようになってきています。
このような大きな価値観の枠組みのことを、フランスの哲学者、リオタールは「大きな物語」と呼んでいます。簡単に言えば、①根拠はないけれども共同体の中で広く共有された、②その中に自分を位置付けることで生きる意味を見つけることができるような物語のことです。「いい大学、いい会社に入れば幸せになれる」というような人生観も「大きな物語」の一つと言えるでしょう。ポスト・モダンの哲学は、すべての「大きな物語」は根拠のない物語にすぎず、唯一絶対ではありえないと論じています。
2.4つの考え方
現代人の心に浮かんだこれらの疑問に対して、キリスト教はどう答えることができるのでしょうか。大きく言って、4通りの考え方があります。
(1)絶対主義
絶対主義とは、イエス・キリスト以外に救いはないと考える立場です。
①根拠
ここでは、カール・バルトによる説明を紹介しておきましょう。バルトによれば、キリスト教を含むすべての宗教は、「人間の言葉」によって作られた偶像崇拝に他なりません。
ですが、キリスト教が他の宗教と違うのは、自分たちの宗教が罪深いものであることを自覚し、ただ「神の言」すなわちイエス・キリストだけに耳を傾けていることです。唯一絶対の救い主であるイエス・キリストに耳を傾ける限り、キリスト教だけは他の宗教と違う「真の宗教」になりうるとバルトは主張します。
②諸宗教への態度
この立場からは、諸宗教に救いを見出すことはできません。イエス・キリストに耳を傾けないすべての宗教は、偶像崇拝と見なされるからです。諸宗教と対話するとすれば、それは諸宗教を信じる人たちを偶像崇拝の闇から解放するためです。
③優れた点
この立場が優れているのは、すべての宗教や人間的な考えを偶像として相対化し、ただイエス・キリストだけを絶対化している点です。人間は、結局のところ自分の力では救われることができず、ただ神の力によってのみ救われるのだということを、この立場ははっきりと思い出させてくれます。
④限界
ですが、この立場には次のような疑問が寄せられています。
鄯.神様は、全人類を救う方であるはずだ。イエス・キリストを知らないなら救われないというのは、あまりに偏狭な考え方ではないか。
鄱.なぜイエス・キリストだけが「神の言」だと言えるのか。ブッダもマホメットも「神の言」だったとは考えられないか。
鄴.この立場に立つならば、諸宗教とは対立せざるをえず、紛争の発生を防げないのではないか。神は人間が争い合うのを望まないはずだ。
(2)包括主義
包括主義とは、諸宗教にも救いがあることを認めるが、その救いはまだ不完全なものであって、イエス・キリストと出会うときに初めて完全になるという考え方です。
①根拠
神様は全人類を救うためにイエス・キリストを遣わしたのですから、イエス・キリストを知らない人たちにも何らかの形で救いの手を差し伸べると考えられます。
諸宗教の中にある救いは、伝統的に「福音の種」(あるいは「ロゴスの種」)と呼ばれ、成長してイエス・キリストに出会うとき完全になるとされています。カール・ラーナーはさらに、すべての人間の心は神(超越)に向かって開かれている、それゆえキリスト教以外の諸宗教を信じている人々も救いに招かれていると主張しています。
②諸宗教への態度
諸宗教の中にあるすべての真理を、神に由来するものとして尊重します。諸宗教と対話することによって、キリスト教徒が忘れていた真理を他の宗教の中に発見する可能性さえあります。
ですが、イエス・キリストこそが唯一の完全な救いであることを宣言することも止めません。なぜなら、それこそがキリスト教のアイデンティティーに他ならないからです。神は唯一であることを大前提として、人類の救いは神のみによってもたらされると考え、三位一体の信仰からイエス・キリストを神と考える限り、イエス・キリストによらない救いなどありえないのです。
《キリスト教の救いの三段論法》
すべての救いは神による⇒イエス・キリストは神である(「三位一体」の信仰によって)⇒すべての救いはイエス・キリストによる
③優れた点
鄯.全人類を救いたいという神様の意志と、1人子イエスを遣わすことでこの世を救いたいという神様の意志を、大きな矛盾なく理解することができる。
鄱.この立場から諸宗教との対話を行うことで、キリスト教がより豊かな宗教になっていく可能性がある。
鄴.イエス・キリストの救いは完全であるという主張を、宗教としてのキリスト教が完全であるという主張と混同しない限り、諸宗教を信じる人々ともに謙虚な態度で神を求めて歩んでいくことができる。
④限界
しかし、この立場に対してもいくつかの疑問が寄せられています。
鄯.他宗教にある救いを不完全なものとみなすことで、キリスト教を他宗教よりも上に置いているのではないか。
鄱.神が全人類を救いたいのならば、キリスト教だけでなく、それぞれの宗教に「完全な救い」を与えるはずではないか。
鄴.自分に何の落ち度もないまま、生まれた場所で信じられている宗教を信じている人々に神が「完全な救い」を与えないというのは、あまりにも理不尽ではないか。
(3)相対主義
すべての宗教を相対的に見る立場です。キリスト教は、他の宗教と並ぶ救いへの一つの道と見なされます。「山に登る道はたくさんあるが、頂上は一つ」というような言葉で表現されることもあります。この場合、山の頂上にいるのは三位一体の神ではなく、それすら越えた何かです。
①根拠
道がたくさんあっても頂上が一つであることの根拠は、人間の認識能力の限界や、人類に共通の体験、人類に共通の倫理的課題などに求められます。
鄯.哲学的根拠…哲学的には、どれほど考えても人間は超越存在としての神自体を知ることができないので、完全に神を知っているという主張を誰もできません。どの宗教も、超越存在としての神に向かう方向をある程度まで指し示す矢印のようなものだと考えられます。
鄱.体験的根拠…体験的には、人間の究極的な宗教体験はどの宗教でも同じなのではないかという議論があります。仏教でもイスラム教でもキリスト教でも、それぞれの神秘主義の伝統における究極的神体験は「今ここで、わたしと神と世界が一つになっている」という同一の体験なのではないかというのです。宗教体験をアルコールに酔うことに譬えて、「酒で酔うか、ウィスキーで酔うか、ブランデーで酔うかの違いはあっても、酔ってしまえばみな同じ」と表現する人もいます。
鄴.倫理的根拠…人類は、核兵器の問題、環境問題など一緒に解決していかなければならない問題をたくさん抱えています。それらに対する答えは、宗教の違いを越えて一つのはずです。
②諸宗教への態度
どの宗教も、基本的に対等であると考えます。「まだ誰も知らない真理を一緒に探していこう」という態度で、諸宗教との対話が進められます。
③優れた点
この立場に立つならば、宗教同士が絶対性を主張して争い合うことがなくなります。諸宗教が共存共栄していくことが可能になるかもしれません。
④限界
一見とてもいい考えに見えますが、この考え方もいくつかの困難な問題を抱えています。
鄯.なぜこの立場の人たちは、自分たちが諸宗教を越えた究極的な真理に到達する道の全体像を知っていると主張できるのか。山の頂上に上り詰めた人が下を見た時にだけ言えるはずのことを、なぜ言うことができるのか。キリスト教の信仰によれば、究極的な真理に到達する道はイエス以外にないし、山の頂上に上り詰めた人もイエスしかいないはず。自分自身をイエスの立場において語るのは傲慢ではないか?
鄱.自分の宗教こそが絶対だと信じている多くの人たちにこの立場を強制するならば、「相対主義の押し付け」という自己矛盾が生じるのではないか?西洋的な平等観の押し付け、思想的帝国主義に陥る可能性がある。
鄴.すべての宗教が救いに至ると考えるなら、「オウム真理教」のように著しく不合理で反社会的な宗教も、救いへの一つの道としてキリスト教と対等に見なされることにならないか。もしそうでないとしたら、この立場の人たちはどこで救いに至る宗教とそうでない宗教を区別するのか?選別の基準を誰が立てられるのか?
鄽.三位一体の信仰を否定しない限り、イエス・キリストによらない救いはありえない。三位一体の信仰を否定したキリスト教は、もはやキリスト教ではないのではないか。
酈.登るべき山が一つであり、頂上が一つであるとしていること自体に、すでにヨーロッパ的価値観が忍び込んでいるのではないか。多神教の立場から言えば、「山がたくさんあって、それぞれの宗教はそれぞれの頂上を目指している」と考えた方が自然ではないか。
(4)現実主義
まだ自分達は他の宗教のことをよく知らないので、今の段階では諸宗教について何とも言えないという立場です。
①根拠
現実問題として、まだキリスト教は他の宗教のことをよく知りません。対話はようやく始まったばかりだと言えます。この段階で他の宗教に救いがあるかどうかを論じるというのは、どうも無理があるようです。
②諸宗教への態度
対話の相手となる宗教の中に救いがあるかどうかの判断は、とりあえず留保します。その上で、相手をよく知りたいという思いだけをもって対話を進めていきます。
③優れた点
知らない相手を裁くという愚かな行動を回避することができます。
④限界
この考えもとてもいい考えに見えますが、いくつかの困難な問題を抱えています。
鄯.単に問題の解決を先延ばしにしているだけではないか。対話の結果、もし相手との間に共通点が何もないことがわかったらどうするのか?
鄱. 道しるべなしに旅を続けるのが不可能なのと同じで、神学的な大きな枠組みを持たずに諸宗教と深い対話をすることは不可能ではないか?
(5)まとめ
結局のところ、どの立場もいい点と弱点を持っています。どれが一番いいかを判断することは極めて困難でしょう。次回、この問題をさらに深く考えるための手がかりとして、カトリック教会がこの問題についてどの立場をとっているのか、マザー・テレサがカトリック教徒として他宗教を信じる人たちとどのように接したのかについてお話したいと思います。