バイブル・エッセイ(119)もう一つの救い

★この説教は、2月21日、カトリック芦屋教会で四旬節黙想会のミサ中に行った説教に基づいています。
 さて、イエス聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。
 「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
 そこで、悪魔はイエスエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。(ルカ4:1-13)

 「神の子」ならば石をパンに変えたらどうか、大きな権力を握ったらどうか、人目を驚かす奇跡を行ったらどうかと言って、悪魔はイエスを誘惑します。この誘惑は、一見もっともなことで、もしそのようなことをすればユダヤの人々は皆イエスが「神の子」だと信じてイエスに従ったかもしれません。しかし、イエスはこの誘惑をきっぱりと断りました。なぜでしょう。
 わたしはここに、神の救いの業の神秘が隠されていると思います。かつて、旧約の時代、神は人々を救うために地上にパンを降らせたり、ダビデやソロモンに偉大な王権を与えたり、預言者たちを通して奇跡を行ったりしました。しかし、その結果はどうだったでしょう。人々は、食べ物や権威、奇跡などがあるあいだだけは神を信じたものの、すぐにまた罪の闇の中に落ちて行ってしまったのです。
 ときが満ちて、神は全く別の方法で人間を救うことを決意されました。力ある大いなる業によってではなく、神ご自身が、まったくの無力さの中で人間の苦しみを共に苦しみぬくことで人間を救おうと決意されたのです。力ある大いなる業ではなく、人間と共にいて、その苦しみに深く共感する愛だけが人間を救う、これこそ救いの業の神秘だと思います。
 わたしたちにもイエスと同じ使命が与えられています。無力さの中で、苦しんでいる人々と共にとどまり、彼らと一緒に苦しむこと、それこそわたしたちに与えられた救いの使命なのです。ですから、自分にもっと力があればとか、もっと評価されていればなどという思いは、すべて誘惑として退けなければなりません。無力さの中にとどまり、無力な人々と苦しみを共にすることこそ、救い主の使命であり、わたしたちの使命なのです。特にこの四旬節のあいだ、この使命をイエスと共に雄々しく担っていきたいものです。
四旬節黙想会配布資料》
 カトリック芦屋教会の四旬節黙想会で配布した資料です。参考までにPDFで添付しておきますので、興味のある方はご覧ください。
1.レジュメ…「わたしは渇く」というイエスの言葉についてマザー・テレサが語った言葉、「霊的な闇」についてマザー・テレサが語った言葉を列挙してあります。
カトリック芦屋教会四旬節黙想会・レジュメ.pdf 直
2.参考資料マザー・テレサが1993年の四旬節にシスターたちに宛てて書いた手紙です。彼女の霊性の核心をなすイエスの渇きについて、非常に深い考察がなされています。
1993年3月25日・ベナレスからの手紙.pdf 直
※写真の解説…カトリック芦屋教会。