マザー・テレサに学ぶキリスト教(5) マザー・テレサの霊性② 「暗闇の聖人」(後半)

4.第二段階(1961〜1997)
 こうして「霊的な闇」の中で苦しみつつも、それを受容しようとしていたマザーに、大きな転機が訪れます。それは、1961年に与えられたノイナー神父との出会いでした。
(1)「闇を愛する」
 1961年に行われた黙想の後でノイナー神父に宛てて書いた手紙の中で、マザーは次のように語っています。
「この11年間で初めて、わたしは闇を愛することができるようになりました。なぜなら、今のわたしはこの闇が地上でイエスが味わった闇と痛みの小さな、ほんの小さな一部分でしかないと信じているからです。」
 「霊的な闇」をイエスから与えられた仕事の「霊的側面」として受け入れなさいというノイナー神父の指導を受けたマザーは、ついに自分が味わっている闇をイエス自身の味わった闇の一部として愛するという境地にまで至りました。全人類を救うためのイエスの苦しみの一部を担うこと、そのことによって全人類の救いに寄与することを、自分に与えられた使命の「霊的側面」として積極的に受け入れることができたのです。マザーは、次のように語っています。
「今、わたしは本当に深い喜びで満たされています。イエスはもはや苦しみを味わうことができませんが、わたしの中で(全人類を救う)その苦しみを味わいたいと望んでおられます。わたしは、今までになく自分のすべてをイエスに差し出しています。そう、今までにないくらい、わたしはイエスのなすがままです。」
 闇に対するこの積極的な態度の中には、闇の受容に努めていた頃とは明らかに違ったマザーの信仰が感じられます。「霊的な闇」はもはや消極的に受容すべき苦しみではなく、積極的に引き受けるべき使命に変わったのです。
 このことに気づいた時、マザーの中で「霊的な闇」は「イエスを愛する喜び」のもう一つの源になっていました。神からいただいた恵みについて、マザーは次のように語っています。
「もう無理に幸せになろうとしたり、周りの人に笑顔を作ったりする必要はありません。神様がわたしに一つの大きな恵みをくださったからです。」
 始め不毛の砂漠のように見えた「霊的な闇」は、マザーにとって喜びを湧きあがらせる泉に変わっていったのです。
(2)イエスの闇との同化
 この洞察は、マザーの中でさらに進んでいきました。1961年10月にノイナー神父に宛てて書いた手紙の中で、マザーは次のように語っています。
「いえ、神父様、わたしは一人ではありません。なぜなら、わたしはイエスの闇と共にいるからです。イエスの苦しみと共にいるからです。わたしはイエスと同じ神への激しい憧れを抱いています。それは、愛されるためではなく、愛するための憧れです。わたしは、自分がイエスと共にいることを知っています。その一致は、決して壊れないほど確かなものです。」
 自分自身が味わっている「霊的な闇」の苦しみを、イエスの闇、イエスの苦しみとして引き受けることによって、マザーは再びイエスと固く結ばれていきました。この結びつきは、何も与えられないことから生まれるものでしたから、誰にも取り去ることができないほど固い結びつきでした。マザーは、次のように語っています。
「わたしは、何も持たないという喜びを持っています。神が存在するという実感さえありません。祈りも、愛も、信仰も、何もありません。あるのはただ神への憧れから生まれる絶え間ない痛みだけです。」
 イエスは十字架上で「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びましたが、マザーはイエスと共に神から見捨てられる苦しみさえ味わいました。マザーは、人々から見捨てられ、弟子たちに裏切られ、神からさえ見捨てられるという十字架上のイエスの苦しみを、自分の苦しみと完全に重ねて味わったのです。「わたしは渇く」と言ったイエスの十字架上での苦しみを、マザー自身も味わったのです。十字架上のイエスの痛みと重ね合わされたとき、「絶え間ない痛み」は「絶え間ない喜び」へと変わっていきました。
 ダージリンへ向かう列車の中でマザーに語りかけた十字架上のイエスの苦しみをマザー自身が味わうことは、もしかすると初めからイエスの計画の中にあったことなのかもしれません。イエスの苦しみをイエスと共に担いつつ、貧しい人々に仕えることこそが、マザーに与えられた使命だったのです。マザーが与えられたのは、イエスの救いの業をこの地上に再現するという使命だったのです。
(3)貧しい人々の闇との同化
 マザーは、イエスの闇として受け入れた自分自身の闇を、さらに貧しい人々の闇と重ねていきます。1965年にノイナー神父に宛てて書いた手紙の中で、マザーは次のように語っています。
「誰からも求められず、愛されず、気にかけられないまま路上に放置されているわたしの貧しい人たちの肉体的な状況は、わたしの霊的生活の、イエスへの愛の完全な写しです。ですが、このひどい苦しみを何か別のものに変えたいと思ったことはありません。さらに言えば、わたしはイエスが望む限りのあいだ、このままでいたいとさえ望んでいます。」
 マザーの目には、イエスの愛を求める自分自身の渇きと苦しみが、孤独の中に死んでいく貧しい人々の渇きや苦しみとぴったり重なり合って見えたようです。「霊的な闇」は、マザーをイエスと固く結び付けただけではなく、貧しい人々とも固く結び付けたのです。苦しみの体験は、マザーを貧しい人々と固く結び付ける共感へと変わっていきました。自分が味わっている苦しみが深ければ深いほど、苦しんでいる貧しい人々への共感も深まっていったことでしょう。
(4)イエスの闇と貧しい人々の闇の同化
 このようなマザーの「霊的な闇」を知ると、マザーの次の言葉がより深い意味を持ってわたしたちに迫ってきます。
「貧しい人々の内に隠されたイエスのこころの渇き、『神の愛の宣教者会』のこころと魂はこれだけです。…わたしたちのただ中で生きておられるイエスの渇きをいやすことこそ、会が存在する唯一の目的です。」
 マザーにとって、貧しい人々の渇きは、イエスの渇きに他なりませんでした。人間の愛に渇きながら路上で死んでいく貧しい人々は、人間へのあまりに深い愛ゆえに十字架上で徹底的な渇きを味わったイエスの渇きを生きている、マザーはそう感じ取っていたのです。その渇きは、マザー自身の渇きでもありました。
 マザーは次のようにも語っています。
「イエスの渇きだけが、イエスの渇きを聞くこと、感じること、こころを尽くしてそれに応えることだけが、マザーが去ったあともこの会を生き生きとしたものにするでしょう。それがあなたたちの生活となるなら大丈夫です。いつかマザーがあなたたちのもとを去るときも、イエスの渇きは決して去っていきません。貧しい人々の中で渇いているイエスは、いつもあなたたちのそばにいるのです。」
 マザーは、「霊的な闇」の中でイエスの渇きと一致することで、イエスの渇きをいやすこと、貧しい人々の中で渇いているイエスの渇きをいやすことがどれほど緊急で重大な課題かを知ることができたのでしょう。自分自身の苦しみの厳しさを省みたとき、もはや一瞬たりともイエスに、そして貧しい人たちにこの苦しみを味わわせ続けることはできない、マザーはそう思ったに違いありません。

5.背景となる出来事
 なぜマザーにこのような現象が起こったのか、その理由は誰にもわかりません。最終的には、神様の御計画としか言いようがないでしよう。
ですが、人間的な目から見た時に、マザーから喜びを奪う可能性があるいくつかの出来事が1950年頃から起こり始めていたことも事実です。これらが「霊的な闇」と因果関係を持つかどうかは分かりませんが、参考までに列挙してみたいと思います。
(1)修道会総長としての責任
 1948年にスバシニ・ダスを最初に受け入れて以来、マザーは多くの修道女たちの母親代わりとして彼女たちの人生に大きな責任を負うことになりました。1950年以降は、修道会を管理運営する責任も負うことになりました。ロレット修道会にいた頃もマザーは責任のある役割を与えられていましたが、それはあくまで大きな修道会の中で与えられた役割にすぎませんでした。これまでになく大きな責任を負うことによって、マザーが心に何らかの重圧を感じた可能性は否定できないでしょう。
(2)膨大な仕事
 発足後すぐに爆発的な成長を始めた修道会を管理運営していくために、マザーは莫大な量の仕事を1人でこなさなければなりませんでした。マザーは、毎晩他の修道女たちが寝た後で最後にベッドに入り、朝は誰よりも早く起きて聖堂に行ったといいます。十分な祈りの時間をとっていたとはいえ、睡眠不足や過労がマザーの心身に何らかの影響を与えた可能性はあるでしょう。
(3)貧しい人々との距離
 修道会の責任者として事務的な仕事をこなすために、マザーは貧しい人々に直接奉仕するための時間を削らざるを得ませんでした。もともと教師として直接生徒たちに奉仕したり、貧しい人たちに奉仕したりすることに喜びを感じていたマザーにとって、これは打撃だったでしょう。
(4)人々から注目を集めたこと
 マザーの活動は、すぐに人々の注目を集めるようになりました。多くの人々が、イエス・キリストではなくマザー・テレサという個人に注目し始めたのです。マザーは人々の目から隠れることを強く望んでいましたから、このことはマザーの心に葛藤を引き起こしたでしょう。
(5)ダージリンへ向かう列車の中での体験
 1959年に書いた手紙の中で、マザーは次のように語っています。
 「以前、わたしは霊的指導から助けと慰めを得ていたものでしたが、この活動を始めてからは何も得られなくなりました。霊的指導者に何も話すことがないのです。少なくとも、わたしにはそう思えます。何か深い話をしたいとは思うのですが、『召し出し』と関わることすべてを語らなければならなくなるという思いがわたしを引きとめています。それで、誰にも話すことができないのです。」
 ここでいう「召し出し」は、1946年9月10日にダージリンへ向かう列車の中で聞いた神の呼びかけのことを指しています。この言葉から、マザーが感じた孤独、誰にも苦しみを話せないという孤独は、ダージリンへ向かう列車の中で起こった出来事のあまりの神秘性に原因があるのではないかとも考えられます。この出来事が、言語化ができず、また言語化しても理解してもらえないほど神秘的なものだったので、この出来事と深く結び付いた「霊的な闇」について話すことができなかったのでしょう。
 通常、修道者は一人ひとりが霊的なことがらについて全てを打ち明けて相談できる司祭ないし修道者を持っており、その人を霊的指導者と呼びます。当時、マザーの霊的指導者はイエズス会員のバン・エクセム神父でした。そのエクセム神父にさえ「霊的な闇」について話すことができなかったマザーは、ついに1953年、ペリエール大司教に胸の内を告白したのです。少なくとも3年のあいだ、マザーは自分一人でこの「霊的な闇」に立ち向かっていたことになります。
(6)母との別離
 政治情勢の変化によって、マザーは1946年頃から母のドラナフィルと連絡が取れなくなってしまいました。当時、ドラナフィルとマザーの姉のアガはマケドニアに住んでいましたが、共産党の勢力圏に入ったマケドニアは外国との連絡を絶ってしまったのです。信仰の絆によって強く結ばれていた母親と連絡がとれなくなったことは、マザーにとってとても悲しい出来事だったでしょう。

6.まとめ
 マザーの「霊的な闇」について、様々な角度から考えてみました。はっきり言えるのは、マザーにとって「霊的な闇」は苦しみだけをもたらすものではなかったということです。むしろ、「霊的な闇」はマザーにとって深い喜びの源でさえありました。「霊的な闇」はマザーをイエスの闇、貧しい人々の闇と固く結びつけ、「イエスの渇きを癒す」というマザーの召命を確固なものにしていったのです。
 味わった苦しみが深ければ深いほど、神への愛も、人々への愛も深くなっていく、これは一つの真理だと思います。わたしたちの人生の中でも、きっと同じようなことが起こりうるでしょう。