やぎぃの日記(26) 一日黙想会


 教会で一日黙想会をした。神学生時代に手伝いをさせてもらったことは何回かあるが、自分ひとりでお膳立てして一日黙想会をするの初めてのことだったので少し緊張した。
 今回の対象者は、わたしが昨年4月から担当している2つの入門講座の参加者、霊的同伴をさせていただいている方々、そして青年会の若者たちだった。聖書や神学を学ぶ場合、頭で学んだことを自分のものにしていくためにどうしても祈りが必要だ。だが、祈るということがどういうことなのかを言葉だけで伝えるのは難しい。言葉で説明し、一緒に祈ってみて初めて伝わっていく部分が多いように思う。その意味で、今回ようやく黙想会を実現できてよかった。皆さんも祈りの場を求めていたようで、20人以上の方が参加してくださった。
 ロザリオを一緒に祈るところから始めて、「呼吸に集中する祈り」、「糾明の祈り」などを一緒に祈りながら、少しずつ祈りに入って行った。次に沈黙の中で各自祈る時間をもうけたが、祈りの素材として今回は聖書ではなくミサの奉献文を選んだ。奉献文はカトリックの信仰を凝縮したような文章だし、それを祈ることは、1年間の勉強の振り返りとしても、これからミサをより深く味わっていくためにも大いに役立つだろうと思ったからだ。奉献文を祈るために、心にとまった言葉を思い巡らしていく祈り方(黙想)と、想像力をフルに使って語られている場面に入り込んでいく祈り方(観想)を説明した。
 黙想会の最後に全体で分かち合いをしたのだが、一番最初にした「呼吸に集中する祈り」が心に響いたという人がとても多かったのに驚いた。この方法は、デ・メロ神父のサダナの祈りでも使われているし、最近はヴィパッサナー瞑想という視点からも取り上げられている。吸う息吐く息に集中することで、自分が今ここで神に生かしていただいていることを実感し、そのことを神に感謝するというところから始まるとても単純な祈りだ。さらに発展させれば、吸う息と一緒に大気に満ち溢れている神の恵みを全身に吸い込み、吐く息と一緒に自分の中にある汚れたものを吐き出していくというようなイメージで祈ることもできる。今回は主題に入る前の準備として短く祈ったが、もっと長く祈れぱよかったかもしれない。
 少しずつ色々なことを学んで、信者さんたちの必要に合った黙想会を提供できるようになっていければと思う。1回目は、まあこんなものだろう。
※写真の解説…冬の陽ざしを浴びた登山道。六甲山、アイスロードにて。