バイブル・エッセイ(46)  一つになるために

 このエッセイは、2月14日に六甲教会で行われた援助修道会修道女、二條あかねさん追悼ミサでの説教に基づいています。参加してくださった皆さん、心を合わせて祈ってくださった皆さん、準備に協力してくださった皆さん、本当にありがとうございました。
 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。
 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」(ヨハネ17:21-26)

 今日読まれた福音の言葉は、十字架につけられる直前、イエスが弟子たちに語ったものです。イエスの残した遺言のような言葉ですが、わたしにはこの言葉が二條さんの遺言のように思えてなりません。
 イエスは当時の社会の中で片隅に追いやられた貧しい人たち、誰からも省みられない病人たちに神の愛を伝えるため、自分の生命を捧げました。彼らが神様にとって本当に大切な「神の子」であることを証するために、あえて十字架にかかり、自分の全てを神様に捧げ切ったのです。そうすることでイエスは神様と完全に一つになりました。
 二條さんは、現代の世界の中で片隅に追いやられたアフリカの貧しい人たちに神の愛を伝えるため、自分の生命を捧げました。彼らが神様にとってかけがえのない「神の子」であることを証するために、あえて彼らにとって身近な出来事である交通事故の危険性をも背負い、神様に生命をお捧げしたのです。そうすることで、二條さんは神様と一つになったと思います。
 わたしはこの10年、二條さんに関わらせていただき、彼女を通してたくさんの恵みをいただきました。一緒に遠足に行ったり、山登りをしたこともあります。先日、山登りをしていたとき、そのときのことが思い出されてなりませんでした。山に登るとき、体力にとても恵まれていた彼女はいつもどんどんわたしより先に進んでいきました。わたしはそのあとを、「待ってくれ〜」と情けない声をあげながら登っていったものです。そんなとき、彼女はいつも少し先で待っていてくれました。先日、山を登っていた時も、次の曲がり角を曲がったら二條さんが待っているのではないか、山頂に着いたら彼女がいるのではないかと思えてなりませんでした。
 ですが、もちろん彼女はそこにいませんでした。わたしは間違ったところに彼女を探していたのです。彼女は今、天国で神様と一つになっています。地上に彼女の面影を探すのではなく、涙をぬぐって天に目を上げるときにだけ、わたしたちは彼女に会うことができるのです。彼女はいつでも天からわたしたちを見守り、わたしたちに微笑みかけています。
 神の愛を証することに生涯をかけた二條さんと、今こころを一つにしたいと思います。彼女を通して神様が語ってくださったメッセージを心にしっかりと刻みつけ、彼女が待つ「神の国」へと共に歩んでいきましょう。
※写真の解説…追悼ミサの様子。二條さんの聖トマス大学時代の恩師である和田幹男神父様、二條さんが援助会に入会した頃のことをよく知っているイエズス会のコリンズ神父様が共同司式してくださいました。撮影・六甲教会広報部。