フォト・エッセイ(92) 箱根②


 この春、わたしの友だちの多くが海外に旅立っていく。箱根に一緒に行ってくれた神学生だけでなく、昨年の9月、わたしと一緒に叙階された2人の司祭もそれぞれ別の国に勉強に行くことになっている。
 もともとわたしは友だちが多い方ではないので、これはかなり大きな打撃だ。彼らはどう考えてもわたしがイエズス会の中で一番親しい友人たちで、彼らがいたからこそわたしはなんとか司祭になることができたとさえ思う。いや、きっと実際にそうだ。彼らが日本からいなくなってしまったら、これから一体誰がわたしをかばってくれるのだろう。そう思うと、やや不安になる。
 昨日、韓国に帰る神学生と別れたとき「今度、いつ会えるかな」という話になったが、しばらく考えて結局「またいつかどこかで会おう」ということで別れざるを得なかった。修道者である以上、自分の将来のことは自分では何も決められない。違う国に別れ別れになってしまえば、神の御旨でない限り滅多なことでは会うことができない。修道者の人生というのは、そういうものだ。
 昨年7月にシスター二條と別れたときもそうだった。教会の近くの喫茶店でしばらく話をして、彼女は援助会の修道院へ、わたしは教会へ帰るとき、別れ際にやはり「今度、いつ会えるかな」という話になった。あのときもお互いにしばらく考えて、結局「まあ、生きていればいつかまたどこかで会えるでしょう」ということになった。彼女が突然死んでしまったので、この地上ではもう2度と会うことができなくなったが、しかしそれもやむをえない。修道者の人生というのは、そういうものなのだ。
 わたしたちが頼ることができるのは、ただ神様の愛だけだ。もし御旨であれば、海外に旅立っていく仲間たちとも、シスター二條ともまたいつか会えるだろう。イエスの愛の中で一つに結ばれている限り、わたしたちは決して離れ離れではない。物理的な距離は関係ないし、生きているか死んでいるかということさえ関係がない。イエスの愛の中に生きている限り、わたしたちは一つなのだ。仮にこの地上で2度と会えなかったとしても、この信仰を守り続けている限り必ずいつか天国で再会することができるだろう。何も心配することはないのだ。







※写真の解説…1枚目、芦ノ湖から見た富士山。2枚目、芦ノ湖名物の海賊船。3枚目、芦ノ湖全景。4枚目、海賊船から。