バイブル・エッセイ(47) 本当の救い

 このエッセイは、2月15日に海星病院の聖堂で行われたミサでの説教に基づいています。説教のあと、「病者の塗油」が行われました。

 そのとき、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。(マルコ1:40-45)

 この物語を読むたびに、もしわたしが重病人で、イエスに出会ったらなんと願うだろうかと想像します。わたしならばきっと「すぐにこの病気を治してください」とお願いするでしょう。ですが、この物語の病人は「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」とだけ願いました。
 願いに答えてイエスはこの人の病を癒し、ユダヤ教の慣習上も清められるために祭司のところに行くよう勧めました。この人が病から清められ、社会に戻っていくことは神の御心に適うことだったのです。
 この病人はイエスに人を清める力があることを確信していましたが、同時に自分の罪深さも認めていたので、治ることにも治らないことにも執着せずすべてをイエスの手にゆだねました。自分のこれからの人生に決定的な影響を持つ病の治癒をイエスにゆだねることで、この人は自分の生涯をすべてイエスの手にゆだねたのです。これほど深く神を信じているこの人に、イエスは深い憐れみの目を注ぎ、手を差し伸べたのでした。
 この病人のイエスに対する深い信頼のまなざしと、イエスの憐れみに満ちたまなざしが重なった時、そこに救いが完成しました。この病人は、救い主と出会い、救い主と深く一つに結ばれたからです。もし病気が治らなかったとしても、この人は救いの喜びにあふれてイエスのもとから立ち去ったでしょう。
 これから「病者の塗油」を行います。この秘跡を受けても、すぐに病が治るということはないかもしれません。ですが、この秘跡を通して自分の弱さや罪深さを認め、イエスにすべてをゆだねるならば、この病人に訪れた救いはわたしたちにも訪れます。
 この秘跡によってイエスと深く結ばれるならば、わたしたちはどんな病の苦しみであっても乗り越えていくことができるでしょう。なぜなら、イエスがわたしたちと共に病の苦しみを担ってくださるからです。イエスの前に自分の弱さ、無力さを認め、自分の生涯のすべてをイエスにゆだねましょう。
※写真の解説…教会の庭に咲いた梅。