バイブル・エッセイ(51) 「最後の審判」

 このエッセイは、3月2日に援助マリア会西宮修道院で行った初ミサでの説教に基づいています。

 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。
 『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
  すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:31-40)

 今日の福音の中で、イエス様はわたしたちに「最後の審判」がどのように行われるのかを教えてくださっています。貧しい人、孤独な人、病気で苦しんでいる人、その人たちに愛を注いだかどうかが「最後の審判」の唯一の基準だというのです。
 「最後の審判」というと、遠い将来に起こる出来事のようにも思えます。ですが、今日の福音を読むと、「最後の審判」はもう始まっていることが分かります。日々の生活の中でのわたしたちの言動の一つ一つがすでに審判の始まりなのです。
 天国とは神様の愛との完全な一致であり、地獄とはエゴイズムの牢獄に自分を閉じ込めて神様との交わりを絶ってしまうことです。もしわたしたちが日々の生活の中で出会う貧しい人、孤独な人、病気で苦しんでいる人にもし暖かな笑顔を向け、優しい言葉をかけるならば、わたしたちはもう天国に向かって一歩あゆみ始めていますし、もしわたしたちの愛を求めているそれら人々、彼らの中にいるイエスに心を閉ざして自分のことだけを考えているならば、わたしたちはもう地獄に向かって一歩あゆみ始めているのです。
 そのように考えると、「最後の審判」で裁きを下すのは神様ではなく、実はわたしたち自身なのだということが分かります。神様は、大切な子どもであるわたしたちすべてを天国に迎え入れたくてしかたがないのですが、わたしたちはときに自分中心の思いに誘惑され地獄に向かって歩き始めてしまいます。
 心からの共感をこめた暖かい微笑み、相手を思いやる優しい言葉、それらの一つひとつがわたしたちを天国と結びつけてくれます。日々の生活の中で、一つひとつの行いを通して天国に近づいていきたいものです。 
※写真の解説…しだれ梅。綾部山梅林にて。