バイブル・エッセイ(771)天国への招き


天国への招き
 そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちにたとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。(マタイ22:1-10)
息子の結婚祝いの準備を万端に整え、あとは客の到着を待つばかり。ところが、招いておいた人は、さまざまな理由をつけて誰も来なかった。それが、天国のたとえ話だとイエスは言います。王は神様、結婚する息子はイエス、招かれたのは祭司長や律法学者たちだと考えたらいいでしょう。神様は預言者たちを送って彼らを「神の国の婚宴」に招いたけれど、彼らは目先のことに追われ、自分勝手な理屈をつけてその招きを断った。中には、預言者を殺すものまでいた。そこで神様は、彼ら以外の人々を、善人も悪人もすべて招くことにしたということです。
 ときどき、「天国はともかく、地獄なんてあるんですか?」と質問されることがあります。地獄は確かにあると思います。神様が地獄を作り、そこに人々を落として苦しめるということではありません。神様はすべての人を天国に招いているのだけれど、「そんなところ、誰が行くか!」と言って拒んでしまう人たちがいる。そのような人たちが行く場所が地獄だ、とわたしは考えています。「天国への招きを断る人なんているのか」と思うかもしれませんが、そのような人は意外と多いのです。例えば、「あの人と和解して仲よく暮らしなさい」という天国への招きを、わたしたちは「いや、あの人だけは絶対にゆるせない」と言って拒んでしまうことがあります。「自分が一番正しい。嫌いな奴は絶対にゆるさない。自分さえ幸せになれればいい」、そのように考えるなら、神様のもとで、すべての人と仲よく暮らすことは耐え難いことでしょう。そのような人たちが、天国に行くのを拒んで集まる場所が地獄だと考えたらわかりやすいのではないでしょうか。
「畑に行かなければならない」「商売があるから」と言って招きを断った人たちの姿は、わたしたちとよく重なります。わたしたちは、さまざまなことに追われて忙しすぎるのです。「ミサに行きたいけど仕事が忙しい」、「毎日の生活の中で祈りの時間を持ちたいけれど、とてもそんな暇はない」、そのように考えるとき、わたしたちは心の中で神様からの招き、祈りへの招きを断っています。
 ミサや祈りの時間だけではありません。鳥や花たちを通してさえ、神様はわたしたちを天国へと招いておられます。立ち止まって道端の花を見つめ、その美しさに感動するとき、わたしたちは天国の喜びへといざなわれてゆくのです。花の美しさや鳥たちの精一杯に生きる姿は、神様から招きなのです。ですが、わたしたちはその招きに応えるゆとりがないのです。
 神様は、わたしたちを愛したくてしかたがないのですが、その愛をわたしたちは拒んでしまいます。神様は、わたしたちをもてなすために真心こめて食卓を準備して下さっているのに、わたしたちは食事に行く暇がないのです。神様の愛をこちらから拒んでおいて、「わたしは神様から見捨てられた」などと苦情を言われても、神様は困るに違いありません。
 一番大切なのは、神様の愛の招きにこたえることです。神様は、わたしたちを愛したくて仕方がないのです。怒りや憎しみ、私利私欲などにとらわれて心を閉ざしていては、神様はわたしたちを愛することができません。天国への招き、愛への招きにこたえることができるように祈りましょう。