バイブル・エッセイ(569)愛を証する


愛を証する
※今回のエッセイは、倉敷市ノートルダム清心学園でのミサ説教に基づいています。
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:31-40)
 先日、ローマで行われたマザー・テレサ列聖式の説教で、フランシスコ教皇が、「マザー・テレサは、無償の愛だけを行動規範として生きた」とおっしゃいました。この言葉は、マザーの人生をとてもよく要約しているように思います。「無償の愛を行動規範として生きる」とは、苦しんでいる人がいたら、放っておけない。自分を犠牲にしても、その人のために何かせずにいられない、ということです。マザーのすごさは、自分のことを考えず、「苦しんでいる人がいたら、放っておけない」という気持ちを行動に移したしたことにあるのです。
 わたしは子どもの頃、テレビでアフリカやインドの貧しい人たちの姿が映し出され、たくさんの人たちが飢えて死んでゆくと聞くたびに、心に大きな疑問を感じていました。「なぜ、誰も助けに行かないのだろう。日本には、食べるものがたくさんあって、助けようと思えばいつでも助けられるのに」と思ったのです。そんな中で、マザーの姿がテレビに映し出されたとき、わたしは子ども心に、「この人は、かわいそうだけですまさず、インドまで助けに行った。本当にすごい人だ。苦しんでいる人を助けられる人に、わたしもなりたい」と強く思いました。マザーのすごさは、「苦しんでいる人がいたら、放っておけない」という人間として当然の思いを、当然に実行したことにあります。今の世界は、残念ながら、当然のことが当然にできなくなってしまっている世界なのです。
 わたしたち誰の心にもある「苦しんでいる人がいたら、放っておけない」という思い。それこそ、「神の愛」の種だとわたしは思います。誰かが苦しんでいるなら、同じ人間として放っておけないという思いを、神様はすべての人の心に刻み込んだのです。すべての人の心に「神の愛」の種が撒かれているのです。大切なのは、その種を守り、育ててゆくことでしょう。
 「神の愛」の種を枯らしてしまうものが三つあります。それは①無関心、➁利己心、そして、➂あきらめです。無関心というのは、難民や飢えて死んでゆく人の姿を見ても「かわいそう。でも、自分とは関係がない」と思って何もしないことです。ですが、家族や友達でなければ、日本人でなければ自分とは関係がないのでしょうか?利己心というのは、「かわいそう。でも、ほかの人が何もしないのに、わたしだけ助けたら損」と思って何もしないことです。相手の苦しみから助けるよりも、自分が損をしないことの方が大切と考えるのです。でも、誰かを愛することは本当に損なのでしょうか?あきらめというのは、「かわいそう。でも、わたしにできることは何もない」と思って、何もしないことです。ですが、たくさんの子どもたちが飢えて死にかけているときに、そんなに簡単にあきらめてしまっていいのでしょうか?
 大人になるにつれて、「放っておけない」という気持ちよりも、無関心や利己心、あきらめの方が大きくなってゆきます。皆さんには、「放っておけない」という気持ちを、何としても守ってほしいと思います。なぜなら、それこそが人類の唯一の希望だからです。「苦しんでいる人がいたら放っておけない」という気持ちを誰もが大切にできたとき、はじめて世界に本当の平和がやってきます。苦しんでいる人が一人もいない、幸せな世界が実現するのです。わたしたちも、マザー・テレサにならって「苦しんでいる人を見たら放っておけない人」、当然のことを当然にできる人になれるよう祈りましょう。