バイブル・エッセイ(802)羊飼いの心


羊飼いの心
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(ヨハネ10:11-18)
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とイエスは言います。委ねられた羊たちのことを隅々まで知って、病気になれば介抱し、敵が迫れば命がけで守るよい羊飼いように、イエスはわたしたちの世話をしてくださる。イエスの後についてゆけば、何も心配することはない。そのような希望を感じさせてくれる言葉です。
 羊飼いは、なぜ自分の命に代えても羊を守ろうとするのでしょうか。羊が自分の財産だからというだけではありません。多くの場合、羊飼いが連れている羊は、村の人々から預かった羊なのです。大切な羊を委ねてくれた村人たちの信頼にこたえるために、羊をまったく損なうことなく、むしろ前よりも元気に、大きく成長させて村人に返したい。命に代えても、羊たちを危険から守りたい。それが、よい羊飼いの心ではないかと思います。エスの場合も、それと同じでしょう。神様はイエスに、迷子になった羊の群れのようなわたしたちをお委ねになりました。神様から委ねられたわたしたちを、イエスは命がけで守ってくださいます。「神様から委ねられた羊だから」という理由だけで、イエスは弱くて不完全なわたしたたちをあるがままに受け容れ、命がけで守ってくださるのです。
 神様は、わたしたちにも「羊の群れ」を委ねてくださいます。皆さん方の多くに当てはまるのは、自分の家族でしょう。お父さん、お母さんには、家族を世話し、命がけで守る使命が与えられているのです。幼稚園の子どもたちを委ねられた人もいれば、老人ホームの高齢者の皆さんを委ねられた人もいるかもしれません。わたし自身で言えば、教会という一つの群れを委ねられたのです。
 ですが、実際には「やれやれ、困ったことになったな」「どうしてここまでしなければならないんだ」などと感じることはあるかもしれません。もとはと言えば血のつながりもない人たち。たまたま出会って恋に落ちた、たまたま職場で自分に委ねられたこの人たちのために、なぜここまでしなければならないのだと思えてきて、馬鹿らしくなることもあるかもしれません。そんなとき、「この人たちは、神様から自分に委ねられた人たちなのだ」ということを思い出したいものです。「この人も、神様から委ねられたかけがえのない人。この人も、大切な神様の子ども」と思って見れば、これまで憎たらしく思えた相手にも、少し愛しさが湧き上がってくることでしょう。その人たちを大切にし、その人たちのために自分の命を費やすことで、わたしたちは神様を喜ばせることができるのです。
 そもそも、イエスがわたしたちのために命さえも差し出してくださったことを忘れないようにしたいと思います。エスは、弱くて不完全で、まったく聞き分けのないわたしたちを、神様から委ねられた羊だからという理由だけで受け入れ、愛して下さいます。そのことに感謝しながら、わたしたちも自分に委ねられた人々の世話をしてゆきましょう。