バイブル・エッセイ(52) 憎しみの地獄

 このエッセイは3月6日、初金曜日のミサで行った説教に基づいています。

 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:21-26)

 兄弟に対して腹を立て、悪口を言うような人は「火の地獄に投げ込まれる」とイエスは言います。これはまた厳しい言葉です。本当は、イエスはすべての人を天国に招くためにきたはずなのに、なぜこんな厳しいことを言うのでしょう。この言葉は、イエスの招きに耳を傾けようとせず、頑なな心で地獄に行こうとする人がいることへの嘆きを込めた言葉ではないかとわたしは思います。
 わたしたちの心の中に怒りのいったん怒りの炎がともると、どういうことになるでしょうか。その炎は、周りにあった燃えやすいものに引火して、どんどん燃え広がっていきます。「あの人は先週もあんなことをした」、「3年前にもあんなことがあった」、「そもそも結婚した初めから…」などなど、怒りはどんどん燃え広がっていき、心全体が炎に包まれていくのです。こうなると、次に出てくるのは「あんな奴、もう顔も見たくない」、「あいつさえいなければ」という激しい憎しみの言葉です。小さな怒りが燃え広がった結果、愛する配偶者や友だちの存在を完全に否定してしまうほどの激しい憎しみが心を支配してしまうのです。
 愛する人と、そこまで激しく憎みあう。これはもう、この世の地獄と言っていいでしょう。怒りの感情に身を任せるとき、わたしたちは自分で自分を「火の地獄」に投げ込むのです。
 小さな怒りが心に燃え上がった段階で、すぐにその火を消してしまいましょう。相手をゆるし、「仲直り」しましょう。怒りの感情は、ほとんどの場合、傲慢な心と表裏一体です。「わたしはこんなにあの人のことを思っているのに」、「なぜいつもわたしばかりが犠牲になるのか」というような思いが、怒りの成長を背後で支えています。ですから、まず謙虚な心をもちたいものです。よく思い出せば、その相手が自分によくしてくれたことだってたくさんあったはずです。自分が間違っている可能性だってあります。相手はそもそも、大切な友だち、あるいは配偶者なのです。相手に対する感謝と尊敬の心を思い出せれば、小さな怒りの火を消すのは簡単でしょう。
 隣人に対する怒りと憎しみはわたしたちを地獄に投げ込みますが、感謝と尊敬はわたしたちを天国の喜びへといざないます。喜びの中を、まっすぐ天国に向かって進んでいきたいものです。
※写真の解説…たつの市御津町「世界の梅公園」にて。