入門講座(33) マザー・テレサの霊性③ 「暗闇の聖人」

《今日の福音》マタイ6:7-15
 今日の福音では、イエスが弟子たちに「主の祈り」を教える場面が描かれています。今回特に注目したいのは、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」というイエスの言葉です。わたしたちは祈るときに、「〜を与えてください」、「〜にしてください」というような祈りをしがちでが、そんなことをくどくど祈る必要はないというのです。
 そもそも、わたしたちが何かを与えてくれと願うとき、それは見当はずれな願いであることが多いように思います。わたしたちは、自分に何が本当に必要なのか知らないからです。神様だけが、わたしたちに何が本当に必要かをご存じで、その必要なものを必要なだけ与えてくださいます。ですから、わたしたちは主の祈りで、ひたすら「神の国」がこの地上に実現するよう願うのです。天の父の名が讃えられる国、神の御旨が支配する国、その実現を願うことだけが、わたしたちに与えられた唯一の祈りなのです。
 祈りの後半部分は、神の御旨が実現すれば当然行われるはずのことばかりです。食糧、赦し、誘惑からの救いを願うことによって、神の前で自分の無力さ、弱さを自覚することができるので、イエスはこの部分を付け加えたのかもしれません。

マザー・テレサ霊性
 前回、「喜びの使徒」としてのマザー・テレサの一面を紹介しました。今回は、別の側面から彼女の霊性を見てみたいと思います。それは、「暗闇の聖人」としての側面です。
3.「暗闇の聖人」
 マザーは霊的指導者であるイエズス会のノイナー神父に宛てた手紙の中で、自分が感じている「霊的な闇」の苦しみを告白した上で次のように書いています。
 「もしわたしが聖人になるなら、『暗闇の聖人』になるでしょう。いつも天国を留守にして、地上で闇の中にいる人々のために灯りをつけてまわるでしょう。」
 自分自身の心の中に深い「霊的な闇」を抱えていたマザーは、同じ暗闇の中にいる人たちの心に灯りをともすような聖人になりたいと願っていたのです。マザーにこのような決意をさせた「霊的な闇」とは一体どのようなものだったのでしょうか。
(1)「霊的な闇」の発見
 マザーの「霊的な闇」について、シスター・ニルマラは次のように語っています。
「1958年5月以来、わたしはマザーとずっと一緒にいましたが、わたしたちの誰1人として、マザーの内面で起こっていたことについて想像さえできなかったと証言することができます。」
 一番身近な存在であるシスターたちですら知らなかったマザーの「霊的な闇」、その存在がわたしたちの間で知られるようになったのは2001年のことでした。マザーの霊的指導者の一人であったイエズス会員ローレンス・ピカシー神父とマザーとの間に交換された手紙を、イエズス会アルバート・ヒュアート神父がインドの神学雑誌 “Vidiya Joti Magazine”とアメリカの神学雑誌 “Religious Review”で紹介したのです。
 その後、マザーの列福調査が進んでいく中でマザーが霊的指導者との間で交換した手紙が収集されていきました。それらの資料の集大成として出版されたのが、 “COME BE MY LIGHT”でした。この本の内容が知れ渡ると、 “TIME MAGAZINE”を始めとする世界のマスメディアが「マザー・テレサの隠された生活」について一斉に報じ始めました。
 こうして今では誰もが知るようになったマザーの「霊的な闇」ですが、 “COME BE MY LIGHT”を読む限りマザーの生前このことを知っていたのは、カルカッタ大司教であったイエズス会ペリエール大司教、マザーの霊的指導者であったイエズス会員ヴァン・エクセム神父、ピカシー神父、ノイナー神父、そして「聖心の司祭会」のマイケル・ヴァン・デア・ピート神父の5人だけです。
(2)2つの段階
 マザーの「霊的な闇」は1949〜50年頃、マザーがイエスから与えられた仕事を始めた直後に始まりました。その闇は1997年にマザーが帰天するまで50年近くにわたって続きましたが、1961年にノイナー神父の下で行った黙想な中で闇に対するマザーの内的な態度に大きな転換があったように思われます。
 ノイナー神父の指導を受ける前のマザーは、イエスから何の霊的慰めも与えられない苦しみを味わいながら、その状態を神の御旨として受容することに努めていました。ですが、ノイナー神父の指導を受けたあとのマザーは、「霊的な闇」をイエス自身の闇、貧しい人々の心の闇と重ね合わせ、それを彼らと共に苦しむことが自分の使命だと考えるようになっていったのです。
(3)第一段階(1949〜1961)
①「恐ろしい闇」
 マザーは、1953年になって初めて自分の心の中に起こっている恐ろしい出来事を人に打ち明けました。ペリエール神父に宛てた手紙の中でマザーは次のように書いています。
「わたしの中に恐ろしい闇があります。まるですべてが死に絶えてしまったかのようです。『この仕事』を始めた頃から、ずっとこんな状態が続いています。」
 マザーの中に、イエスからの恵みを全く感じられない闇が広がり始めたのです。それと同時に、マザーは孤独の苦しみも訴えています。
「どういうわけか分かりませんが、わたしの心の中には表現することができないほどの孤独があります。」
マザーの闇は、人に話しても理解してもらえないような、話すことさえできないような種類の闇だったのです。
②「恐ろしい痛み」
 マザーは、闇がもたらす痛みについて次のように書いています。
「イエスよ、今わたしは誤った道を進もうとしています。地獄にいる人々は、神を失ったために永遠の痛みを味わうとよく言われます。魂の中で、わたしは恐ろしい痛みを感じているのです。それは喪失の、神がわたしを望んでいないということの、神が神ではないということの、神が実は存在しないのだということの痛みです。」
 イエスの存在をまったく感じられなくなったマザーは、神がいないのではないかという疑いに駆られるほどの苦しみを味わったのです。それでも、マザーはなんとか祈ろうとしますが、結果は次のようなものでした。
「思いを天に向けようとするとき、どうしようもない空虚さにぶつかります。天に向けようとした思いは、するどいナイフのように戻ってきて、わたしの魂を傷つけるのです。愛は何ももたらしてはくれません。それはただの言葉のように響きます。」
 祈ろうとしても祈れない苦しみの中で、マザーはただひたすら闇に留まるほかなかったのです。
③「憧れゆえの苦しみ」
 ピカシー神父に宛てた手紙の中で、マザーはこの苦しみを「憧れゆえの苦しみ」だと分析しています。
「わたしの心は苦しみでいっぱいです。愛が人をこれほどまでに苦しめるとは知りませんでした。この苦しみは喪失ゆえの、憧れゆえの苦しみです。人間的な苦しみですが、神によって引き起こされたものです。」
 イエスを失ったときに感じたこの痛みは、逆に言えばそれまでマザーにとってイエスがどれほど身近でリアルな存在だったかを示しています。マザーはロレット修道会を離れる前、アサンソールに滞在していた頃のイエスとの深い交わりを次のように回想しています。
「アサンソールでは、まるで主がわたしに自分をまるごと下さったようでした。ですが、甘美で、慰めに満ち、主と固く結ばれたその6カ月は、あっという間に過ぎてしまいました。」
 これほど深く結ばれていた人が急にいなくなってしまったことで生じた喪失感、いなくなってしまった人への憧れ、それがマザーに言語に尽くしがたいほどの苦しみをもたらしたのです。マザーは、次のように語っています。
「さびしさのもたらす痛みがあまりに大きく、同時に『いなくなってしまった方』への憧れがあまりに深いため、わたしはもう『イエスの聖心よ、あなたを信じます』としか祈ることができません。」
 イエスの存在を感じられない苦しみの中で、マザーはただイエスの聖心に示された神の愛だけにすがっていったのです。苦しみの中でマザーを支えていたのは、イエスへの信頼だけだったことが、次の言葉からも分かります。
「わたしの心の中では、すべてが凍りついています。ただ盲目的な信仰だけがわたしを支えています。」
④慰め
 このような苦しみの中でも、ときには慰めが与えられることがあったようです。
鄯.貧しい人々との接触
 「霊的な闇」の時期に、マザーは次のように書いています。
 「スラム街を通ったり、貧しい人たちの家に入ったりすると、そこには必ず主がおられます。」
 厳しい「霊的な闇」の中でも、マザーは貧しい人々の中にイエスをはっきりと感じることができたようです。
鄱.散発的な恵みの体験
 祈りの中でも、ときに恵みが与えられることがあったようです。1958年にペリエール大司教に宛てた手紙の中でマザーは次のように書いています。
「わたしは、神様がわたしたちの会を喜んでいるのかどうか確認したくて祈っていました。するとそのとき、あの長く続いていた暗闇、喪失の痛み、孤独感、10年も続いたおかしな苦しみが消え去ったのです。今日、わたしの心は表現できないほどの喜びを伴う愛で満たされています。愛の固い絆で満たされています。」
 ですが、この恵みのときは約1ヵ月しか続きませんでした。2週間後にペリエール大司教に宛てて書いた手紙の中で、マザーは次のように書いています。
「主は、わたしがトンネルの中にいた方がいいと思っておられるようです。主は、もうわたし独りを残して去っていかれました。主が下さった愛の1ヵ月に感謝しています。」
 散発的に与えられるこのような短期間の恵みの体験は、闇の中にいるマザーの信仰を支える糧になったことでしょう。
鄴.新しい修道女たちの存在
 マザーは、新しい修道女たちが育っていく姿を見るときにも、大きな喜びを感じることができたようです。そのことは、次の言葉から分かります。
「新しく入会してきた修道女たちは、今まさに聖人へと開花しつつあります。彼女たち全員が、わたしにとって大きな喜びです。彼女たちを見ていると、わたしは仕事の量を2倍に増やすことさえできます。」
⑤受容
 このような恵みに支えられつつピカシー神父から霊的指導を受ける中で、マザーは次第に「霊的な闇」をあるがままに受容できるようになっていきます。1959年4月にピカシー神父に宛てて書いた手紙の中で、マザーは次のように語っています。
「このことを、わたしはもう心配していません。他のすべてのことをイエスに委ねたのと同じように、このこともイエスに委ねました。わたしは柔和で謙遜なイエスの聖心のままに、聖人になりたいのです。今のわたしは、そのことしか考えていません。」
 マザーはイエスの不在の苦しみさえイエスに委ねることによって、「霊的な闇」を受け入れようとしていたようです。ピカシー神父に宛てた手紙の中で、マザーは次のようにさえ語っています。
「わたしの心の中には、恐ろしい闇と混乱、孤独しかありません。ですが、もし人生の最後までこのような状態が続いたとしても、わたしは完全に幸せです。」
(4)第二段階(1961〜1997)
 こうして「霊的な闇」の中で苦しみつつも、それを受容しようとしていたマザーに、大きな転機が訪れます。それは、1961年に与えられたノイナー神父との出会いでした。
①「闇を愛する」
 1961年に行われた黙想の後でノイナー神父に宛てて書いた手紙の中で、マザーは次のように語っています。
「この11年間で初めて、わたしは闇を愛することができるようになりました。なぜなら、今のわたしはこの闇が地上でイエスが味わった闇と痛みの小さな、ほんの小さな一部分でしかないと信じているからです。」
 「霊的な闇」をイエスから与えられた仕事の「霊的側面」として受け入れなさいというノイナー神父の指導を受けたマザーは、自分が味わっている闇をイエス自身の味わった闇の一部として愛するという境地にまで至りました。全人類を救うためのイエスの苦しみの一部を担うこと、そのことによって全人類の救いに寄与することを自分に与えられた使命の「霊的側面」として積極的に受け入れることができたのです。マザーは、次のように語っています。
「今、わたしは本当に深い喜びで満たされています。イエスはもはや苦しみを味わうことができませんが、わたしの中で(全人類を救う)その苦しみを味わいたいと望んでおられます。わたしは、今までになく自分のすべてをイエスに差し出しています。そう、今までにないくらい、わたしはイエスのなすがままです。」
 闇に対するこの積極的な態度の中には、闇の受容に努めていた頃とは明らかに違ったマザーの信仰が感じられます。「霊的な闇」はもはや消極的に受容すべき苦しみではなく、積極的に引き受けるべき使命に変わったのです。このことに気づいた時、マザーの中で「霊的な闇」は「イエスを愛する喜び」のもう一つの源になっていました。神からいただいた恵みについて、マザーは次のように語っています。
もう無理に幸せになろうとしたり、周りの人に笑顔を作ったりする必要はありません。神様がわたしに一つの大きな恵みをくださったからです。」
 始め不毛の砂漠のように見えた「霊的な闇」は、マザーにとって喜びを湧きあがらせる泉に変わっていったのです。
②イエスの闇との同化
 この洞察は、マザーの中でさらに進んでいきました。1961年10月にノイナー神父に宛てて書いた手紙の中で、マザーは次のように語っています。
「いえ、神父様、わたしは一人ではありません。なぜなら、わたしはイエスの闇と共にいるからです。イエスの苦しみと共にいるからです。わたしはイエスと同じ神への激しい憧れを抱いています。それは、愛されるためではなく、愛するための憧れです。わたしは、自分がイエスと共にいることを知っています。その一致は、決して壊れないほど確かなものです。」
 自分自身が味わっている「霊的な闇」の苦しみを、イエスの闇、イエスの苦しみとして引き受けることによって、マザーは再びイエスと固く結ばれていきました。この結びつきは、何も与えられないことから生まれるものでしたから、誰にも取り去ることができないほど固い結びつきでした。マザーは、次のように語っています。
「わたしは、何も持たないという喜びを持っています。神が存在するという実感さえありません。祈りも、愛も、信仰も、何もありません。あるのはただ神への憧れから生まれる絶え間ない痛みだけです。」
 イエスは十字架上で「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びましたが、マザーはイエスと共に神から見捨てられる苦しみさえ味わいました。マザーは、人々から見捨てられ、弟子たちに裏切られ、神からさえ見捨てられるという十字架上のイエスの苦しみを、自分の苦しみと完全に重ねて味わったのです。「わたしは渇く」と言ったイエスの十字架上での苦しみを、マザー自身も味わったのです。
 ダージリンへ向かう列車の中でマザーに語りかけた十字架上のイエスの苦しみをマザー自身が味わうことは、もしかすると初めからイエスの計画の中にあったことなのかもしれません。
③貧しい人々の闇との同化
 マザーは、イエスの闇として受け入れた自分自身の闇を、さらに貧しい人々の闇と重ねていきます。1965年にノイナー神父に宛てて書いた手紙の中で、マザーは次のように語っています。
「誰からも求められず、愛されず、気にかけられないまま路上に放置されているわたしの貧しい人たちの肉体的な状況は、わたしの霊的生活の、イエスへの愛の完全な写しです。ですが、このひどい苦しみを何か別のものに変えたいと思ったことはありません。さらに言えば、わたしはイエスが望む限りのあいだ、このままでいたいとさえ望んでいます。」
 マザーの目には、イエスの愛を求める自分自身の渇きと苦しみが、孤独の中に死んでいく貧しい人々の渇きや苦しみとぴったり重なり合って見えたようです。「霊的な闇」は、マザーをイエスと固く結び付けただけではなく、貧しい人々とも固く結び付けたのです。
④イエスの闇と貧しい人々の闇の同化
 このようなマザーの「霊的な闇」を知ると、マザーの次の言葉がより深い意味を持ってわたしたちに迫ってきます。
「貧しい人々の内に隠されたイエスのこころの渇き、『神の愛の宣教者会』のこころと魂はこれだけです。…わたしたちのただ中で生きておられるイエスの渇きをいやすことこそ、会が存在する唯一の目的です。」
 マザーにとって、貧しい人々の渇きは、イエスの渇きに他なりませんでした。人間の愛に渇きながら路上で死んでいく貧しい人々は、人間へのあまりに深い愛ゆえに十字架上で徹底的な渇きを味わったイエスの渇きを生きている、マザーはそう感じ取っていたのです。その渇きは、マザー自身が感じている渇きでもありました。
 マザーは次のようにも語っています。
「イエスの渇きだけが、イエスの渇きを聞くこと、感じること、こころを尽くしてそれに応えることだけが、マザーが去ったあともこの会を生き生きとしたものにするでしょう。それがあなたたちの生活となるなら大丈夫です。いつかマザーがあなたたちのもとを去るときも、イエスの渇きは決して去っていきません。貧しい人々の中で渇いているイエスは、いつもあなたたちのそばにいるのです。」
 マザーは、「霊的な闇」の中でイエスの渇きと一致することで、イエスの渇きをいやすこと、貧しい人々の中で渇いているイエスの渇きをいやすことがどれほど緊急で重大な課題かを知ることができたのでしょう。自分自身の苦しみの厳しさを省みたとき、もはや一瞬たりともイエスに、そして貧しい人たちにこの苦しみを味わわせ続けることはできない、マザーはそう思ったに違いありません。
(5)背景となる出来事
 なぜマザーにこのような現象が起こったのか、その理由は誰にもわかりません。最終的には、神様の御計画としか言いようがないでしよう。
ですが、人間的な目から見た時に、マザーから喜びを奪う可能性があるいくつかの出来事が1950年頃から起こり始めていたことも事実です。これらが「霊的な闇」と因果関係を持つかどうかは分かりませんが、参考までに列挙してみたいと思います。
①修道会総長としての責任
 1948年にスバシニ・ダスを最初に受け入れて以来、マザーは多くの修道女たちの母親代わりとして彼女たちの人生に大きな責任を負うことになりました。1950年以降は、修道会を管理運営する責任も負うことになりました。ロレット修道会にいた頃もマザーは責任のある役割を与えられていましたが、それはあくまで大きな修道会の中で与えられた役割にすぎませんでした。これまでになく大きな責任を負うことによって、マザーが心に何らかの重圧を感じた可能性は否定できないでしょう。
②膨大な仕事
 発足後すぐに爆発的な成長を始めた修道会を管理運営していくために、マザーは莫大な量の仕事を1人でこなさなければなりませんでした。十分な祈りの時間をとっていたとはいえ、睡眠不足や過労がマザーの心身に何らかの影響を与えた可能性はあるでしょう。
③貧しい人々との距離
 修道会の責任者として事務的な仕事をこなすために、マザーは貧しい人々に直接奉仕するための時間を削らざるを得ませんでした。もともと教師として直接生徒たちに奉仕したり、貧しい人たちに奉仕したりすることに喜びを感じていたマザーにとって、これは打撃だったでしょう。
④人々から注目を集めたこと
 マザーの活動は、すぐに人々の注目を集めるようになりました。多くの人々が、イエス・キリストではなくマザー・テレサという個人に注目し始めたのです。マザーは人々の目から隠れることを強く望んでいましたから、このことはマザーの心に葛藤を引き起こしたでしょう。
ダージリンへ向かう列車の中での体験
 マザーが感じた孤独、誰にも苦しみを話せないという孤独は、ダージリンへ向かう列車の中で起こった出来事のあまりの神秘性に原因があるのではないかとも考えられます。この出来事が、言語化ができず、また言語化しても理解してもらえないほど神秘的なものだったので、この出来事と深く結び付いた「霊的な闇」についてマザーはごく少数の人にしか話すことができなかったのではないかと考えられます。
⇒マザーは1946年9月10日にダージリンに向かう列車の中で起こった出来事がなんだったのか、結局はっきり語らずに死んでしまいました。わたしが知っている限り、それが「イエスの渇き」と深く結びつき、マザーをスラム街での奉仕へと駆り立てる体験だったという以外、具体的なことは何も分かっていません。この出来事の直後に書かれたペリエール大司教への手紙の中に、「イエスの渇き」という言葉が出てこないことも不可解です。このことについては、また別の考察が必要でしょう。
⑥母との別離
 政治情勢の変化によって、マザーは1946年頃から母のドラナフィルと連絡が取れなくなってしまいました。信仰の絆によって強く結ばれていた母親と連絡がとれなくなったことは、マザーにとって悲しい出来事だったでしょう。
(6)まとめ
 マザーの「霊的な闇」について、様々な角度から考えてみました。はっきり言えるのは、マザーにとって「霊的な闇」は苦しみだけをもたらすものではなかったということです。むしろ、「霊的な闇」はマザーにとって深い喜びの源でさえありました。「霊的な闇」はマザーをイエスの闇、貧しい人々の闇と固く結びつけ、「イエスの渇きを癒す」というマザーの召命を確固なものにしていったのです。

4.まとめ
 3回にわたってマザー・テレサ霊性について扱ってきました。マザーの霊性には神秘的な部分が多く、マザーの手紙にはわたしの理解をはるかに越えることばかりが記されています。正直に言ってわたしなどの手にはあまるのですが、いろいろ調べているうちに心が燃え上がってくることも事実です。今後さらに研究を進め、マザーの霊性を浮き彫りにしていくことができればと思います。

《参考文献》
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・Hunt , Dorothy, “Love : A Fruits Always in Season –Daily Meditations by Mother Teresa.”, Ignatius, 1987.
・Le Joly, Edward, “The Joy in Loving –Mother Teresa”, Penguin Books, 1996.
・『愛する子どもたちへ マザー・テレサの遺言』、ドン・ボスコ社、2001年。
・『わたしはあなたを忘れない マザー・テレサのこころ』、ドン・ボスコ社、2001年。
・『聖なる者となりなさい マザー・テレサの生き方』、ドン・ボスコ社、2002年。
・『マザー・テレサ書簡集』、ドン・ボスコ社、2003年。