バイブル・エッセイ(58) 感謝する心

 このエッセイは4月3日、初金曜日ミサでの説教に基づいています。
 エスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」
 そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」(ヨハネ10:32-38)

 先日、桜の写真を撮りに京都まで行ってきました。京都の桜はすごいと聞いてはいましたが、お天気にも恵まれてもう錦絵の中に迷い込んだかと錯覚するほどの美しさでした。枝垂桜の大木が特にきれいだったので、一本一本の木の前で20分も30分もとどまって写真を撮っていきました。
 そんなとき、他の見物客の声が耳に聞こえてきます。驚いたことに、ある人たちは美しい桜を前にして「なんだ、去年よりはたいしたことがないな」、「○○公園の桜の方がきれいだわ」と言っています。家で何かいやなことがあったのかもしれませんが、目の前にあるこれほどの美しさが目に入っていないようなのです。
 この人たちの感じ方は、今日の福音の中の律法学者たちと通じるところがあるように思います。目の前でイエスが、これ以上はないというくらいはっきりした形で神の愛を語り、それを業によって証しているにもかかわらず、彼らの目にはそれが見えないのです。「自分たちのほうが神のことをよく知っている。この若造が何を偉そうなことを言うんだ」というような思いが、彼らの目をふさいでしまったのでしょう。
 そうかと思うと、別の見物客の御婦人は桜を見て「こんな花を見ていると、なんだか涙が出てくるわね」と言っていました。桜のあまりの美しさに心を打たれ、ちっぽけな自分にこれほどの美しさを示してくれた神、ないし人間の力を越えた何ものかに感謝の涙があふれてくる、そんな気持ちだったのではないかと思います。その言葉を聞いて、わたしも「本当にそうだなぁ」と思いました。
 そうやって感謝の心で桜を見始めたとき、不思議な感覚が起こってきました。一本一本の桜の木が、わたしに話しかけてくるような気がしたのです。「人のことは気にせず、自分なりに精いっぱいに咲けばいいんだよ」、「神様はいつもきみのそばにいるんだ、安心しなさい」、満開の桜がわたしにそう語りかけてきたのです。桜に宿った聖霊が、わたしに語りかけたのかもしれません。
 これと同じように、もしわたしたちがイエスに心を開き、感謝の言葉でイエスの言動を受け止めるなら、わたしたちはイエスの中に宿っておられる神に出会うことができるのではないでしょうか。傲慢さを捨て、感謝の心でイエスと出会いたいものです。
※写真の解説…京都・醍醐寺三宝院の枝垂桜。