マザー・テレサに学ぷキリスト教(3) マザー・テレサの生涯②後半

第3回 マザー・テレサの生涯②後半
4.ノーベル平和賞受賞から帰天まで
(1)年譜
1981年 4月22-28日、初の訪日。東京・大阪。/4月24日、東京に修道院開設。/写真家沖守弘氏、写文集『マザー・テレサ あふれる愛』を出版。
1982年 4月21-28日、2度目の訪日。東京・大阪・福岡・長崎。
1983年 ローマ訪問中に、心臓の障害が発見される。
1984 10月13日、ニューヨークにて「神の愛の宣教者会」の司祭会創立。
⇒1981年に始まった、聖なる司祭を教会に送るための運動「コーパス・クリスティ運動」は、司祭の修道会へと発展していきました。オブレット会出身のジョセフ神父が、司祭会の初代総長に選ばれました。
1984 11月19-25日、3度目の訪日。東京、仙台、岡山、広島、名古屋。
1986年 2月、教皇ヨハネ・パウロ2世、「死を待つ人の家」を訪問。/名古屋・七宝町修道院開設。/ペトリプロダクション、映画『マザー・テレサ 母なることの由来』を公開。
1989年 12月、心臓にペースメーカーを装着。
1991年 1月、湾岸戦争の勃発を防ぐため、ブッシュ大統領フセイン大統領に宛てて手紙を書く。
1992年 アメリカ・サンディエゴで心臓の手術を受ける。
1993年 3月25日、ベナレスにて「霊的遺言」と呼ばれる手紙を書く。
⇒先述の、『マザー・テレサ書簡集』に収められていますので、興味のある方はお読みください。1950年9月10日に起こった霊的体験のことについても詳しい言及があります。
1993年 大分・別府市修道院開設。
1993年 8月30日、組織としての「マザー・テレサ共労者会」を解散する意向を表明。
⇒マザーのこの決定は、全世界の共労者に衝撃を与えました。マザーは、共労者たちが寄付金を使って会議をしたり、旅行したりすることに不満を感じていたようです。現在、「マザー・テレサ共労者会」は、国際組織や全国組織を持たず、各地の「神の愛の宣教者会」の修道院と連絡を取り合いながら局地的な活動を続けています。
1995年 阪神淡路大震災に当たって、6人の修道女を神戸に派遣。1996年 心不全で入退院を繰り返す。
⇒このとき、マザーが危篤であることが全世界に報道され、教皇様をはじめ、全世界から見舞いの手紙やメッセージが寄せられました。教皇様からの手紙が届いた時、シスターたちは一つの工夫をしました。マザーが病院から修道院に戻りたがることに困っていた彼女たちは、教皇様からの手紙の最後に「病院で静かにしていてください」という一文を付け加えたのです。その手紙を読んで、マザーはおとなしくなったとのことです。
1996年 9月10日、1946年9月10日に神の呼びかけを聞いてから50年が過ぎたことを祝う。
1997年 3月、シスター・ニルマラ、マザーの後継者に選ばれる。/4月9日、マザーの「第二の自分」と言われたシスター・アグネス、肝臓癌にて帰天。/5月、最後のローマ、ニューヨーク訪問。/9月5日午後9時半、カルカッタのマザー・ハウスで帰天。死因は、呼吸困難と多臓器不全。このときまでに、「神の愛の宣教者会」活動は世界123国に広がり、シスターの数は3,914人になっていた。/9月13日、ネタジー室内競技場にて国葬。マザー・ハウスに埋葬。
⇒帰天の数日前、カルカッタ大司教のヘンリー・デ・スーザ師がマザーを見舞うと、マザーはとても苦しそうな様子をしていました。その苦しみが何によるのか分からないという医師たちの説明を聞いた大司教は、すぐにその苦しみが悪魔によるものだと直感し、悪魔払いを行ったそうです。すると、マザーの苦しみは間もなく和らぎました。
 その後マザーは退院し、マザー・ハウスで最後の日を迎えることになりました。マザーの最後の一日については、シスターが綴った美しい報告の手紙があります。拙著『聖なる者となりなさい マザー・テレサの生涯』(ドン・ボスコ社刊)に収められていますので、興味のある方はどうぞご覧ください。
 マザーの死後、机の上からマザーの書きかけの手紙が発見されました。世界の人々に宛てて書かれたこの手紙の中で、マザーはイエスの渇きに応えるため、聖母と共に立つことの重要性をあらためて訴えています。この手紙は、拙訳『マザー・テレサ書簡集』(ドン・ボスコ社刊)に収められていますので、興味のある方はどうぞご覧ください。
 マザーの最後の言葉として、当初「息ができません」という倒れる直前の言葉が伝えられていましたが、後に最後を看取ったシスターが明らかにしたところでは、マザーは隣で祈っていたそのシスターの声に合わせて、息を引き取る間際まで「イエス、あなたを信じています。イエス、あなたを愛しています」(Jesus, I trust you . Jesus I love you.)と祈っていたそうです。
 マザーが帰天したとき、自由主義諸国も共産圏の国々も、こぞってマザーのために追悼文を発表しました。インド政府は、マハトマ・ガンジーやジャワルハラル・ネルーの葬儀に使った台車をわざわざデリーの博物館からカルカッタに運び、マザーの遺体を運搬するのに使いました。各国から、元首の婦人クラスの人々が葬儀に参列しました。日本からは、当時の衆議院議長土井たか子氏が出席しました。
2003年 10月19日、ローマにて列福
(2)マザー自身の言葉
「みなさまと共にいるこの美しい機会を与えられましたことを、わたしは心から神に感謝いたします。ここでいま、御一緒に一つの決意をしたいと思います。この美しい国日本を、とくにこの東京を、わたしたちが神のために喜びと平和と愛にみちあふれた美しいところにできるよう決意したいと思います。」(東京での講演の席で)
「おふたりともそれぞれに対処しなければならない事情があり、世話をしなければならない国民がいるということは分かっていますが、この世に平和を教えるために来られたかたの声にまず耳を傾けてください。神の愛によって愛されるために神はわたしたちを創られたのであって、憎しみによって破壊されるために創られたのではありません。」(ブッシュ大統領フセイン大統領に宛てた手紙から)
「今や時代は変わり、修道女たちは世界105の国にいます。わたしたちはもはや、統治委員会や事務所やネットワーク、そして銀行口座を持った『組織』としての共労者会を必要としていません。会報を発行したり、共労者として旅行したりするためにお金を使ってもらいたくないのです。」(共労者会の解散に当たって。)
「日本の神戸での恐ろしい地震のことを聞いて、わたしはすぐに修道女たちを送ることをその地の大司教に申し出ました。人々、とくに年老いた人々に神の愛と共感をもたらすために、6人の修道女がその街に行きました。彼女たちは、慰め、希望、そして励ましとなるような言葉を人々にかけ、また必要な人には物資を配りながら、5000人以上の人々が亡くなった街を歩いて回りました。自分の痛みと苦しみをイエスの痛みと苦しみに結び付けることによって、人々が力と癒しを見つけることができるように、神戸の人々と、自然災害や戦争、暴力によって苦しむすべての人々のために祈りましょう。」(阪神淡路大震災に当たって)
「今年は、『神の愛の宣教者会』を誕生させたインスピレーションが与えられて、50年の記念の年です。病気の人々、貧しい人々、見捨てられた人々、そして孤独な人々のこころ痛む姿の中におられるイエスに仕えることができるという貴重な恵みを与えてくださったことを、神に感謝しましょう。」
「最初わたしが死にそうになったとき、聖ペトロは天国にはスラムがないからと言ってわたしが天国に入るのを断りました。ですが、今、天国はスラムの人たちで一杯なはずです。」
「イエスの渇きだけが、イエスの渇きを聞くこと、感じること、心を尽くしてそれに応えることだけが、マザーが去った後もこの会を生き生きとしたものにするでしょう。それがあなたたちの生活となるなら大丈夫です。いつかマザーがあなたたちのもとを去るときも、イエスの渇きは決して去っていきません。貧しい人々の中で渇いているイエスは、いつもあなたたちのそばにいるのです。」
「新しい総会長が誕生したことを聞いて、あなたたちも喜んでいることと思います。これはわたしたちの会とあなたたちへの神からの贈り物です。シスター・ニルマラのことを知っている方もいるでしょう。彼女は、わたしたちの会の観想部門で総会長顧問をしていました。」
「ガンでひどく病んでいるアグネス修道女のためにも、たくさんのお祈りをお願いします。痛みと苦しみを立派に受け入れ、そしてそれを神に捧げることによって、彼女はわたしたちの模範となっています。聖ヨセフの祝日である3月19日に、彼女は入会48周年を祝います。わたしがまだ貧しい人々の他には何も、そして誰も持っていなかったときに、わたしの仕事に加わってくれた最初の人として、彼女がイエスの呼びかけに『はい』と答えた、その記念日です。」
「9月10日が近づいています。これはわたしたちが改めて、聖母のそばに立つための、イエスの渇きを聞くための機会です。聖母と共にあることでのみ、わたしたちは『わたしは渇く』というイエスの叫びを聞くことができるのです。そして聖母とあることによってのみ、この恵みをわたしたちの会に対して与えてくださったことを、ふさわしく神様に感謝することができるのです。」(最後の手紙より)
(3)マザーの後継者、シスター・ニルマラの言葉(葬儀での追悼演説より)
「1946年9月10日、わたしたちが『インスピレーションの日』と呼ぶその日に、ヒマラヤの山中をダージリンに向かって走る列車の中で、イエスはマザーに語りかけました。神は、人間に対する大いなる渇き、とりわけ貧しい中でも最も貧しい人々への渇きを語りました。そしてこの神の渇きを癒すために、貞潔・清貧・従順、そして『貧しい中でも最も貧しい人々へのこころからの無償の奉仕』という誓願をもった「神の愛の宣教者会」という新しい修道会を始めるように頼んだのです。」
「イエスに『はい』と言った瞬間から息を引き取るまで、マザーはこのイエスの呼びかけを生き抜きました。彼女に与えられた力の限りに。マザーの神に対する愛をこめた信頼と、喜びながら自分を神に差し出していく生き方とによって、主は数えきれないほどの愛の奇跡を行いました。それは彼女の生涯を通して、そして今日も、世界中でわたしたちが目撃したことです。」