マザー・テレサに学ぶキリスト教(6) マザー・テレサの霊性③「我、渇く」(後半)

5.ベナレスからの手紙
 マザーにとって1946年9月10日に体験したイエスの渇きがどのようなものだったのか、その体験がなぜ貧しい人々への奉仕につながるのかは、マザーが1993年3月に「神の愛の宣教者会」の全てのメンバーに宛てて書いた「ベナレスからの手紙」と呼ばれる手紙の中に克明に記されています。この手紙を手がかりに、9月10日の体験についてより深く考えてみたいと思います。

(1)どのような体験だったのか
 マザーは、手紙の冒頭で次のように語っています。
「イエスの愛は、あなたたちの想像を超えるものです。わたしたちは聖堂でときを過ごしますが、あなたたちはイエスが愛をこめてあなたたちを見ているのを自分の魂の目で見たことがありますか。あなたたちは本当に生きているキリストを知っていますか。本によってではなく、心の中でイエスと共にとどまることによって。あなたたちは、イエスが語りかける愛情のこもった言葉を聞いたことがありますか。」
 修道女たちに対するこの呼びかけの背景に、マザー自身の体験があったことは疑いがありません。おそらく、1946年9月10日、ダージリンへ向かう列車の中で神は突然マザーの心の目と耳を開き、イエスの愛情深いまなざしと言葉を彼女の心に直接注ぎ込んだのでしょう。そのとき感じたイエスの愛は、マザーの想像をはるかに超えるものでした。その愛を、マザーはイエスの「渇き」として表現したのだと考えられます。
(2)愛の言葉としての「渇き」
 マザーにとって「渇く」という言葉は、愛という言葉以上に深い相手への思いを表すものとして響いていたようです。手紙の中に、次のような文章があります。
「もしマザーの手紙の中で何かを覚えておくとすれば、このことを覚えておきなさい。『わたしは渇く』という言葉は、『わたしはあなたを愛している』という言葉よりも、何かもっと深いものだということです。」
 単に心の望みや憧れだけでなく、全身全霊を上げて相手を求めるほどの深い愛を表現する言葉として、イエスは「渇く」という言葉を選び、用いたのだとマザーは考えていたようです。マザーは、次のようにも語っています。
「イエスはあなたたちを愛しているだけでなく、熱望しているのです。あなたたちが近くに来ないならば、イエスは悲しむのです。イエスはあなたたちに渇いているのです。」 
 相手からの応答を求めてやまないほどの渇望、単なる愛情を越えた相手への圧倒的な思いの奔流、9月10日に起こった「イエスの渇き」との出会いの中でマザーは、イエスから自分にそのようなものが向けられているのを感じ取ったのだと考えられます。この「渇き」を感じ取ったとき、マザーはイエスを愛することでこの渇きを癒そうと決心しました。
 純粋な愛は無償のものだから、イエスが応答を求めるのはおかしいという考え方もありえます。ですが、愛は一方通行のままでは不完全で、相手方の愛によって応えられたときに初めて完全なものになるということも確かです。愛は、互いを受け入れ合うことによって完全な交わりとなったときに完成するのです。そのような愛こそ、三位一体の神のうちに結ばれた愛であり、イエスが人間とのあいだにも結びたいと望んでいたものなのです。
(3)貧しい人々のうちに隠された渇き
 では、イエスの渇きは貧しい人々への奉仕とどのようにつながっていくのでしょうか。マザーは、次のように語っています。
「貧しい人々の内に隠されたイエスの心の渇き、『神の愛の宣教者会』(M.C.)の心と魂はこれだけです。わたしたちのただ中で生きているイエスの渇きを癒すことが、会の唯一の存在目的です。」
「『わたしは渇く』と『あなたはそれをわたしにしたのだ』(マタイ25:40)、この2つの言葉を結びつけられるようにしなさい。」
 先述のマタイ福音書の言葉を手がかりにして、マザーはイエスが貧しい人々の中でもわたしたちの愛に渇いていると感じました。十字架上で渇いているイエスの渇きを癒したい、イエスの愛の求めに応えたいという思いは、マタイ福音書の言葉に導かれながら、「わたしの兄弟である最も小さい者」としての貧しい人々の中にいて渇いておられるイエスの渇きを癒したいという思いにつながっていったのです。
もし1946年9月10日に十字架上のイエスの渇きに圧倒される体験をしなかったなら、マザーの中に貧しい人々の中で渇くイエスに仕えたいという思いが圧倒的な力で湧きあがることもなかったでしょうし、「神の愛の宣教者会」が創立されることもなかったでしょう。その意味で、十字架上のイエスの渇きを感じることこそが、マザーたちの活動の原点であり、原動力であり、唯一の存在目的なのです。
(4)イエスの渇きを感じるために
 では、どうしたらイエスの渇きを感じることができるのでしょうか。
「どのようにしてあなたたちはイエスの渇きに近づくのですか。そこには一つの秘密があります。イエスに近づけば近づくほど、あなたたちはイエスの渇きをもっと知ることになるのです。」
 わたしたちは、自分からイエスとの間に距離をとってしまうことがたびたびあります。イエスの愛に背を向けて、自分中心の考えに陥ってしまうことがあるのです。それこそが、わたしたち人間が父祖の代から綿々と引き継いできた罪なのです。
「『悔い改めて、信じなさい』とイエスはおっしゃっています。何を悔い改めるのですか。わたしたちの無関心と、心の頑なさです。何を信じるのですか。あなたたちの心の中で、そして貧しい人々中で、イエスは今でも渇いているということです。イエスはあなたたちの弱さを知りながら、あなたたちの愛だけを、そしてあなたたちを愛する機会だけを望んでいるのです。」
 もしわたしたちが悔い改め、わたしたちの心の中や貧しい人々の中で愛を求めて渇くイエスの叫びに応えるならば、自分や貧しい人々の中にいるイエスを愛するならば、わたしたちはイエスに近づくことができます。もし近づくならば、わたしたちの目にイエスの渇きはよりはっきりしたものとして見えるでしょうし、「渇く」というイエスの声ももっとはっきり聞こえるようになるでしょう。
(5)まず自分を受け入れる
気をつけなければならないのは、自分からイエスの愛を拒絶してしまうことです。自分の心の中から呼びかけるイエスの愛を感じられないなら、貧しい人々を通して呼びかけるイエスの愛を感じることもできないでしょう。マザーは、次のように言っています。
「あなたたちが近くに来ないならば、イエスは悲しむのです。イエスはあなたたちに渇いているのです。自分は愛に値しないと思っているときですら、イエスはあなたたちを愛しているのです。もし他の人々から受け入れられないときも、自分で自分を受け入れないときでも、イエスはいつでもあなたたちを受け入れるのです。」
 周りの人たちから無視されたり、批判されたりすると、わたしたちは自分に愛される価値がないのではないかと思いこんで絶望してしまいがちです。「生きている意味がない」、「生きているのがつらい」、絶望の中でそのような思いがわたしたちの心を蝕んでいきます。
 ですが、そのような思いは、悪魔がわたしたちをイエスの愛から遠ざけるための計略なのです。わたしたちがそのように思いこみ、その思い込みによって自分たちの目と耳を閉ざしてしまっているときでも、イエスはわたしたちの目を愛情深くじっと見つめ、「わたしはあなたに渇く」と言い続けておられるのです。マザーは、次のように修道女たちを励ましています。
「わたしの子どもたち、イエスから愛されるために自分と違ったものになる必要はないのですよ。信じなさい、あなたたちはイエスにとってかけがえのないものなのです。あなたが苦しんでいることをすべてイエスの足元に運びなさい。ありのままでイエスから愛されるためには、ただ心を開くだけでいいのです。残りのことはイエスがしてくれます。」
 自分で思い描いた理想の自分にならなければわたしには価値がない、という思い込みがわたしたちを神から遠ざけます。「こんな自分ではだめだ、本当の自分はこんなはずではない」という思い込みは、わたしたちの心の目を閉ざし、神の愛を見えなくしてしまうのです。ですが、その思い込みから解放されて心の目をしっかりと開くなら、神の愛はいつでもわたしたちの目の前にあります。
 心を開いてありのままの自分を神にさらけ出すとき、神はわたしたちを大きな愛で包み込み、癒してくださいます。わたしたちは心の目を開きさえすればよいのです。あとのことは、すべてイエスがしてくださいます。
6.まとめ
 「渇く」という言葉に凝縮されたイエスの愛の体験は、マザーの人生を根底から変えてしまいました。この愛の体験が土台にあったからこそ、マザーは「喜びの使徒」として人々にイエスを愛する喜びを届けてまわることができたし、暗闇の中にあってもイエスの愛を疑うことなく、ただイエスの愛を信頼して進んでいくことができたのです。その意味で、1946年9月10におこった「我、渇く」の体験は、マザー・テレサ霊性全体の土台だと言えるでしょう。
 わたしたちも、マザーの後に従って進んでいくために、わたしたちの愛に渇くほどわたしたちを愛してくださるイエスに心を開きたいものです。心の目を開いて愛情深いイエスのまなざしを見、心の耳を開いて「渇く」というイエスの声を聞きたいものです。「ベナレスからの手紙」にマザーが記した言葉を、わたしたちの心にしっかりと刻みつけましょう。