やぎぃの日記(42) 『おくりびと』再び


 昨日までの10日間に、六甲教会では4人の方々のための通夜、葬儀ミサがあった。追悼ミサも何回かあったので、毎日のように亡くなった方たちのためにミサを捧げていたような気がする。2月にもこんなことがあったが、この気候のいい5月にこんなことが起こるとは思いもしなかった。急な暑さが、病気で衰弱した体にこたえたのかもしれない。
 ようやくすべての式が無事に終わり、昨日の晩は久しぶりに御遺体のない教会でぐっすり寝ることができた。御遺体をお預かりしていると、責任が肩にのしかかってくるようでなかなか安心して眠れないのだ。寝る前に、DVDで久しぶりに『おくりびと』を観た。愛する人の死に直面した遺族の思いが、とてもよく描かれているのに改めて感動した。若くして亡くなった妻を見送る夫、働きづめに働いて死んでいった母を見送る息子など、別れがたい相手と急に別れざるをえなくなった彼らの苦しみが痛いほど胸に響いてきた。観ているうちに自然と涙がこぼれてきた。
 この数日の通夜や葬儀ミサ、追悼ミサのときにも同じことを感じた。地道な針仕事で子どもたちを育て上げた無口な父親の最後を見送る息子、働きづめに働いてこれから悠々自適の引退生活に入ろうかという矢先にガンに取りつかれて亡くなった夫の最期を見送る妻と子どもたち、病気ですっかり衰え棺の中に小さく収まった母を見送る娘。彼らの思いが、司式しながら痛いほど胸に響いてきた。思わず涙ぐみながら司式せざるをえないようなこともあった。
 こうして死と別れの場面に立ち合い続けるわたしも、やがては当事者として肉親を見送ったり、自分自身が見送られたりする日がくるだろう。死を前にしては何もすることのできない人間の無力さと悲しさを、しっかり胸に刻みつけながらその日に備えたい。その無力さと悲しさが、神の愛に向かって進む原動力になっていくことだろう。
※写真の解説…六甲山山頂付近で見かけた花。