カルカッタ報告(28)8月26日「死を待つ人の家」②


 1時間くらいそうやって洗い続けて、ようやく全員の入浴が終わった。10人くらいの身体を洗っただろう。病棟の方に戻って、今度は患者さんたちの身体をマッサージすることにした。患者さんたちの大半はベンガル語しか話せないので、残念ながら言葉でのコミュニケーションはほとんどできない。だが、身体をマッサージするとみんな喜ぶので、昔よく彼らの身体をマッサージして回ったものだった。素人マッサージであっても、患者さんたちは快く受け入れてくれる。今朝、ミサのときに一緒だったデュアルテ神父も、同じように患者さんたちをマッサージして回っていた。彼も「死を待つ人の家」で働いているのだ。
 10時を過ぎたころ、シスターたちが病棟の端の少し高くなった部分にテーブルを出し、ミサの準備を始めた。マザーの誕生日を記念して、今からミサをするという。デュアルテ神父とわたしも共同司式を頼まれた。主司式は50代くらいのインド人司祭がするようだった。
 ミサが始まる前に挨拶してわかったのだが、彼はなんとイエズス会員だった。普段は、イエズス会が経営するカルカッタ屈指の名門校、聖ローレンス高校で働いているそうだ。わたしが、自分も日本管区のイエズス会員だと言うと、日本に来ているインド人の会員たちの名前を挙げて彼らはどうしているかと尋ねられた。もちろん知っている神父さんの名前ばかりだったので、簡単に近況を知らせた。世界は広いようで狭いものだ。
 15年前にわたしがいたころにも、ここでは日曜日や特別な祝日にミサが行われていた。うっかりしていたが、マザーの誕生日という特別な日にミサがあるのはある意味で当然のことだ。それにしても、初日からここでミサを司式することになるとは思わなかった。マザーの墓前とマザー・ハウス主聖堂、「死を待つ人の家」の3ヶ所でミサを司式できれば、司祭としてカルカッタに戻ってなすべきことの大半を終えたようなものだ。
 ミサを立てながら、時の流れの不思議さを思った。昔は、ここで「神の愛の宣教者会」司祭部門のギャリー神父が毎週ミサを立てていた。ブラザーたちもたくさんいて、ハーモニオンなどのインドの楽器で歌を伴奏してくれた。院長のSr.ドローリスとわたしは大の仲良しだった。マザーが「死を待つ人の家」に来ているときなどは、ミサの最中でも彼女の許可で写真を撮って回ったものだ。今、ブラザーたちはすべて新しい顔ぶれに変わり、ギャリー神父はメキシコに、Sr.ドローリスは南米にいると聞いた。わたしだけがここに戻ってきて、司祭としてミサを立てている。
 ミサを立てながら、集まったボランティアたちの中にかつてのボランティア仲間たちがいるような気がしてならなかった。患者さんたちも全員入れ替わっているはずだが、かつてわたしが世話していた患者さんたちや、最後を看取った患者さんたちさえもベッドからこのミサの様子を見ているような気がした。そして、「死を待つ人の家」の空間全体にマザーの存在をはっきりと感じた。ミサ中たびたび「今わたしは世界で最も貧しい人々の中で、彼らのためにミサを立てているのだ」、「世界で最も貧しい彼らのために、わたしたち司祭の存在を通してここにイエス・キリストが来られたのだ」と思って深い感動を覚えた。
 ミサが終り、昼食の時間が近づいてきた。2階から大きな鍋に入ったカレーやご飯が運びおろされている。昔は、1階の調理場で作っていたが、今は2階で作っているらしい。1階の調理場は洗濯場に隣接していて衛生的に問題があったので、これは改善といえるだろう。そのほかにも、ボランティアのために使い捨てのマスクとビニール手袋が準備されていたり、水道に濾過機がつけられていたり、手洗い場に消毒液が置かれていたり、衛生面での改善があちこちに見られた。一番驚いたのはボランティア用のトイレだ。昔は便器の隣に水を張ったバケツが置かれている典型的なインド式トイレだったのだが、なんと洋式の便器が置かれ、トイレットペーパーも備えられた立派な水洗便所になっていた。
 大きな金属のお皿に盛られたカレーと揚げた魚とご飯の昼食を患者さんたちに配り、自分では食べられない人たちの食事の手伝いをした。なにしろ久しぶりなので、カレーをすくったスプーンを患者さんの口に入れる角度がなかなかうまくいかなかったりして苦戦した。
 食事が後片付けまで終わったところで、12時半になったので帰ることにした。午前中だけのボランティアたちは、だいたいこのくらいの時間で引き揚げることになっている。来た道をたどって大通りまで戻り、朝と同じバスに乗ってマザー・ハウスへ帰った。 
※写真の解説…「死を待つ人の家」の外観。