マザー・テレサに学ぶキリスト教(6) マザー・テレサの霊性③「我、渇く」(前半)

第6回 マザー・テレサ霊性③「我、渇く」
Ⅲ.「我、渇く」
 マザー・テレサ霊性についての3回の講義の最終回である今日は、彼女の霊性の根幹をなす「我、渇く」の体験についてお話ししようと思います。「喜びの使徒」としての霊性も、「暗闇の聖人」としての霊性も、その土台になっているのは1946年9月10日にダージリンに向かう列車の中で起こった彼女の体験です。
 この体験をマザーは後に、十字架上でのイエスの言葉「我、渇く」(ヨハネ19:28)という言葉によって要約しました。彼女にとってこの体験は、渇いているイエスとの出会いの体験に他ならなかったというのです。
 なぜこの体験はマザーの生涯を大きく転換させるほどの力を持ったのでしょうか。マザーにとってこの体験は一体どんなものだったのでしょうか。どうしてイエスの渇きが貧しい人々への奉仕とつながるのでしょうか。今回は、このことについて考えてみたいと思います。
1. 9月10日の体験
(1)「呼びかけ」
 1946年9月10日に起こった体験についてマザーはほとんど語ることがありませんでしたが、語る場合には神からの「呼びかけ」という言葉を使って簡潔に説明していました。1970年頃、マルコム・マゲリッジのインタビューの中で語られた次の言葉が、代表的な説明の一つと言えるでしょう。
「1946年、わたしは黙想をするためにダージリンに向かっていました。その列車の中で、すべてを捨てて、貧しい中でも最も貧しい人々のうちにおられるキリストに仕えるために、キリストのあとについてスラム街にでるようにという呼びかけを聞いたのです。わたしには、それが神の御旨であることがわかりました。ですから、キリストについていくほかなかったのです。」
 この体験をマザーは、「呼びかけの中の呼びかけ」という言葉でも表現しています。マザーはすでにロレット会の修道女としての生活に神から呼ばれていましたが、さらにそこを出て別の生活に移るようにとの呼びかけを受けたからです。

(2)「我、渇く」
 マザーは、この体験を「我、渇く」というイエスの言葉で要約する場合もありました。貧しい人々の魂に渇いているイエスの渇き、貧しい人々の中で渇いているイエスの渇きをいやすために、スラム街に出る必要があったというのです。
 マザーにとって、イエスの渇きとは人々の愛への渇きに他なりませんでした。十字架上で人々の愛を求めて渇いたイエスの苦しみを、マザーは9月10日の体験の中で感じ取ったのです。その体験の中で、イエスの渇きを癒し、苦しみを取り除きたいという思いがマザーの中に燃え上がっていきました。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の1人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)
 この言葉を手がかりとして、マザーの中でイエスの渇きを癒したいという思いは、貧しい人たちの渇きを癒したいという思いに直結していきました。こうしてマザーは、スラム街で生きる貧しい人々のために働くことになったのです。

(3)「神の愛の宣教者会」の創立目的
 「神の愛の宣教者会」を創立したとき、マザーはすべての活動の基盤となるこの体験を他の修道女たちと分かち合い、修道会の基盤とするため、全世界のすべての修道院の聖堂の十字架の隣にこの言葉を置くように指示しました。それと合わせて、会のあり方を規定する重要な文書である会憲に次のように記しました。
「わたしたちの目的は、人々の魂の愛を求める十字架上のイエス・キリストの無限の渇きを、福音的勧告に基づく誓願と、会憲に従った『貧しい中でも最も貧しい人々への真心を込めた無償の奉仕』によって癒すことです。」
 福音的勧告に基づく誓願とは、清貧、貞潔、従順の修道誓願のことです。「神の愛の宣教者会」を含むすべての修道会は、イエスの生涯に倣ってこの3つの誓願を生きています。清貧とは、マザーにとって貧しい人々とまったく同じような不便な生活を喜んですることを、貞潔とは、マザーにとって夫であるイエス・キリストだけに自分の全てを捧げることを、従順とは、マザーにとって神の呼びかけにいつでも無条件に応えることを意味しています。
 「神の愛の宣教者会」には、さらにもう1つ第四の誓願があります。それが「貧しい中でも最も貧しい人々への真心を込めた無償の奉仕」です。これら4つの誓いを守って生きることで、マザーは十字架上で苦しむイエスの渇きを癒そうとしたのです。
(4)「神の渇きとの出会い」
 9月10日の体験は、神の声を聞く体験だったのかという問いに対して、マザーはそうではないと答えています。その体験は、むしろもっと心の奥深いレベルで起こったことだというのです。この体験について、「神の愛の宣教者会」の司祭部門の初代総長ヨゼフ・ラングフォード神父は次のように説明しています。
 「聖堂に『我、渇く』という言葉を置く習慣は、マザー自身の『イエスの渇きの体験』から生まれたものです。さらに言えば、マザーが神の渇きと出会ったということこそが、9月10日の出来事の核心であり本質だということです。」
 マザーはこの説明を受け入れ、このことを多くの人々に伝えるようヨゼフ神父に指示したそうです。9月10日の体験は、マザーにとってイエスとの出会い、それも十字架上で人々の愛に渇くイエスとの出会いそのものだったのです。そうだとすれば、この体験を言語によって説明しつくせないのは当然です。
 マザーがこの体験について語りたがらなかったのは、このためでしょう。語る言葉が見つからないし、語ってもその思いを誤解なく正確に相手に伝えることは極めて困難に感じられたので、マザーはこの体験について語らず、マリアに倣って心の中でただ「思い巡らしていた」のです。
 9月10日の出来事についてわたしたちがはっきり言えるのは、マザーとイエスの間に「渇き」を媒介とした通常では考えられないほどの深い出会いが起こり、それが彼女の人生を一変させてしまったということだけです。キリスト教の歴史の中には、このような劇的な瞬間を体験する人たちがときに現れます。

2. 使徒たちの体験
 マザーのこの体験は、復活したイエスに出会った使徒たちの体験と重ね合わせることができると思います。
 ペトロを初めとする弟子たちは、イエスが十字架に付けられたとき、みな自分の命を守るために逃げてしまいました。ですが、「復活」と呼ばれる出来事を契機として、弟子たちはまったく生まれ変わったような人生を歩み始めました。復活したイエスとの出会いを通して、彼らは殉教に至るまでイエスを愛し抜くほど強い信仰を持った人々に生まれ変わったのです。この体験がどのようなものであったのか、言葉で表現しつくすことは不可能でした。そこで弟子たちは、この出来事に「復活」という名前をつけて人々に伝えることにしました。
 パウロの場合も同じです。「地に倒れた」という言葉で表現されるダマスコに向かう途中での体験が、パウロの生涯を根底から変えてしまいました。地面に打倒した上に、目から光を奪うほどの圧倒的なイエスとの出会いの体験が、パウロを熱烈な宣教者へと生まれ変わらせたのです。
 神様は、ときにこのような仕方でわたしたちの人生を変えてしまうことがあります。聖イグナチオは『霊操』の中でこのような神の呼びかけについて次のように書いています。
「主なる神が心を動かし、引き寄せてくださる時であり、その結果、敬虔な霊魂は疑うことなく、また疑うこともできず、示されることに従うのである。聖パウロと聖マタイがこのようにわが主キリストに従ったのである。」
 1946年9月10日にマザー・テレサに起こった出来事も、おそらくこれに類するものだったのだろうと思われます。きっと、有限で時間に制約されたこの世界に向かって神が大きく扉を開き、その人を「神の国」へと有無を言わさず引き寄せていくような体験なのでしょう。このような体験は、その人を根底から変えてしまい、もう元に戻ることができないほどの痕跡をその人の生涯に残すようです。この体験によって、マザーの生涯が後戻りできないほど変わってしまったことだけは確かです。
3.聖書に見るイエスの渇き
(1)単なるのどの渇きなのか?
 ヨハネ福音書19章28節から30節には、イエスの最後が次のように描かれています。
 「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」
 この記述だけを読むと、イエスの「渇く」という言葉は、単にのどの渇きを意味しているかのようにも思えます。詩篇69番22節にある次の言葉が実現するために、イエスはのどの渇きを訴えたのだとも考えられるのです。
 「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします。」
 マザーは、イエスの言葉を深く読み込み過ぎたのでしょうか。わたしは、そうは思いません。なぜなら、「すべてのことが今や成し遂げられた」というときに、イエスが突然肉体の苦しみを訴えるとは考えにくいからです。むしろ、最後まで神への愛を語ったと考えるほうが自然でしょう。イエスは、神への愛を表現するために「渇く」という言葉を使ったのです。同時にそれは、詩篇69番の実現としての意味も持っていました。
 ヨハネ福音書は4章や7章で霊的な強い望みを表現するために「渇き」という言葉を使っているという事実も、マザーの解釈の正しさを裏打ちしてくれるでしょう。ヨハネ福音書7章37-38節に次のように書いてあります。
 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れ出る。」
(2)「わが神、わが神、なぜわたしを」
 マタイ福音書やマルコ福音書には、イエスが絶命する前に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだと書かれています。この言葉はぎりぎりの線で発せられた神への愛情表現だとわたしは思います。
 人々から見捨てられ、神からさえも見捨てられたとしか思えないような状況の中でさえ、イエスはそれでも神への思いを捨てることができず、神に向かって叫ばずにいられなかったのです。この言葉の背後には、「わたしはそれでもあなたの愛を信じています。どうかお救いください」という思いがあったようにわたしは思います。それは、詩篇22がわたしたちに教えてくれることでもあります。
 この言葉は、同時にイエスが愛してやまなかった人々、逃げ去っていった弟子たちへの愛を表現しているとも考えられます。「なぜ最愛の弟子たちをわたしから取り去ったのですか」という思いが、この言葉から感じ取れるからです。
 わたしは、ヨハネ福音書では「渇く」という言葉が、これと同じ思いを表現しているのではないかと思います。神に対するイエスの愛、弟子たちへの愛が、ヨハネ福音書では「渇く」という言葉で表現されたのだと思えてなりません。 
4.教会の伝統に見るイエスの渇き
 教会の伝統も、マザーの解釈を裏付けています。マザーの体験と響き合う、聖人たちの言葉をここでいくつか御紹介したいと思います。
(1)アウグスティヌス
「神は、渇き求められることに渇いています。」
「イエスは十字架上で『我、渇く』とおっしゃいました。しかし、人々はイエスが求めていたものをイエスに与えませんでした。イエスは、彼らを渇き求めていたのです。」
(2)ボナベントゥーラ
「人類に命を注ぎたいという神の渇きが、イエスの中に現わされました。イエスは、欠乏のゆえにではなく、あふれるほどの豊かさのゆえに渇いているのです。神の愛は、本性的にあふれだしていくものなのです。」
(3)クレルボーのベルナルドゥス
「主イエスは、渇きによってわたしたちへの熱烈な愛のイメージをわたしたちに提示しています。」
(4)トマス・アクィナス
「イエスは、人類の救いを熱烈に求めていました。そして今、イエスのその望みの激しさが『渇き』によってはっきりと表現されたのです。」
(5)リジューのテレジア
「『渇く』という言葉は、わたしの心に生き生きとした、これまで体験したことがないような情熱の火を燃え上がらせました。わたしは、『愛する方』の渇きを癒したいと望み、イエスが感じているのと同じ魂への渇望に吸い込まれたように感じました。」
「イエスはわたしたちの働きではなく、愛だけを求めておられます。そのために、神自らがサマリアの女にわずかばかりの水を乞うたのです。神は渇いていたのです。」
「ああ!わたしは感じます。イエス様はかつてないほど渇いておられるのです。世間の弟子たちの中に、主は恩知らずや冷淡な者しか見いだされません。」
「イエス様には愛がとてもお入り用なのです。渇き切っていらっしゃるので、喉を潤すたった一滴の水でもいいからと待っておられます。」