マザー・テレサに学ぶキリスト教(8) 祈り②

第8回 マザー・テレサに学ぶ祈り②
 前回、祈りについて「沈黙」という言葉を手がかりにして考えてみました。今回は、同じことを別の言葉を手がかりにして考えてみたいと思います。「空っぽ」という言葉が、今回の手がかりです。
Ⅱ.「空っぽの心」
1.何も持たない心
 マザー・テレサは、自分が何もできないことで悩む司祭に対して次のように言いました。
「神はいっぱいのものを満たすことができません。神は空っぽのものだけを満たすことができるのです。本当の貧しさを、神は満たすことができるのです。」
 自分の中にたくさんのものがあれば、神様の恵みをいただくことができない。何もできない無力さの中にこそ、神様の恵みが働くのだから安心しなさいというのです。自分を空にしたとき、神様の恵みがそこに注がれる。これは、祈りの根本原理だと思います。
(1)空のコップ
 マザーはこの言葉の中で、人間の心をコップのような容器に譬えて話しています。この譬えでは、神様の恵みはコップに注がれる水のようなものということになります。もしコップの中に氷やら何やらいろいろなものが一杯に入れられていれば、コップに水を注ぐことはできないでしょう。それと同じで、もしわたしたちの心の中が、執着や虚栄心、物欲、権力欲、怒り、嫉妬などで一杯ならば、神様はわたしたちの心に恵みを注ぐことができないのです。
 大地を潤す雨のように、神の愛はいつでもわたしたちの上に降り注いでいます。問題はそれを受け止めるコップであるわたしたちの心にあります。祈りは、恵みの雨を受け止められるようにまずコップを空にすること、つまり自分の心の中から余計なものを取り除くことから始まると言っていいでしょう。
(2)「空の手で」
 マザーが尊敬していたリジューのテレジアが次のように言っています。
「命の夕べに、わたしは空の手で神のみ前に立つことでしょう。」
 生涯、神の前で小さなものであり続けることを望んだテレジアは、人生の終わりに一切の執着も徳さえも持たない空っぽの手で神の前に立ちたいと願っていました。空の両手だけを神様に差し出したいと望んでいたのです。
 もしわたしたちが両手にたくさんのものを握りしめていれば、何かを与えられたとしても手を開いて受け取ることができないでしょう。それと同じで、もし心がたくさんのものへの執着で固く閉じられていれば、神様が恵みをわたしたちに下さろうとしても受け取ることができません。握りしめたたくさんのものから思い切って手を放さない限り、わたしたちはそれ以上何も受け取ることができないのです。
 祈りは、まず固く握られた手を開くこと、心から神以外のものへの執着をなくすことから始まると言っていいでしょう。
(3)「本当の貧しさ」
 マザーが言う「本当の貧しさ」とは何でしょうか。それは、心の中に何の執着も持たない、なにものも自分のものとして持たない貧しさのことだと思います。
 もし被造物に対してなんらかの執着があれば、神様よりも被造物を大切にしてしまうかもしれません。神様の御旨よりも自分の名誉、財産、権力などを優先して行動してしまう可能性があるのです。たくさんの被造物にしがみつき、心の中にそれらをため込んでいる状態は、祈りのために決してふさわしいものではないでしょう。神様の恵みが注がれる余地がなくなってしまっているからです。そのような状態は、マザーが言う「本当の貧しさ」ではありません。
 名誉にしても、財産にしても、権力にしても、それらを手に入れた人間の心にはおごりが生まれがちです。そういったものを手に入れると、これだけのものを手にした自分は偉いのだ、自分の力で何かをできるのだという気持ちが生まれてきてしまうのです。おごり高ぶった人は、神様ではなく自分の力により頼もうとするようになります。自分に力があるという思い込みは、さらに競争心、嫉妬、力への執着などを招きこみ、心を塞ぐ大きな障害物になっていきます。そのようなものを抱え込んだ状態は、マザーがいう「本当の貧しさ」ではありえません。
 逆に、何かを持つことへの執着と自分の力への過信を心から取り去ることができれば、わたしたちは心からほとんどの障害物を取り除くことができたと言えるでしょう。その意味では、わたしたちから持っているものを否応なく取り上げ、自分の無力さを思い知らせてくれる全ての体験、病気も、別離も、争いも、大きな恵みだと言えます。自分の無力さを思い知り、すべてのことを神に委ねることができたとき、自分には神しかないのだと心から思い知ったとき、わたしたちの心に「本当の貧しさ」が訪れます。
 神は、そのような「本当の貧しさ」を、恵みで満たすことがおできになる方です。わたしたちの心が謙虚さによって空になったとき、神様はその空間に恵みを注がずにはいられない方だとさえ言っていいでしょう。

2.自己放棄
 マザーは、祈りについて次のようにも語っています。
「キリストへの愛、キリストのそばにいる喜び、キリストの愛への自己放棄、それらこそがわたしたちの祈りなのです。祈りは完全な自己放棄、キリストとの一致以外の何ものでもないからです。」
 マザーにとって祈りとは自分を手放し、ただイエスの思いで自分の思いを置き換えていくこと、そうすることでキリストと一つになっていくことに他ならなかったというのです。
(1)「自己放棄」
 「自己放棄」とは、自分の中にある被造物への執着を捨て、自分を「空っぽ」にしていくことに他なりません。神以外は何も頼みにしないし、こだわらない。自分のちっぽけな思いなど、神の大いなる御旨の前ではなんでもないと思って手放していく。それが、「自己放棄」ということです。マザーは、次のように言っています。
「あなたがどう感じるかではなく、あなたの中でイエスがどう感じているかが問題なのです。」
 この言葉は、そのような「自己放棄」の精神を的確に要約していると言えるでしょう。わたしたちが感じることは、所詮、この時間とこの場所によって制約された一個の人間が感じたり知ったりしたことにすぎません。わたしたちの中に住むと同時にすべての人の中に住むイエスが感じておられることとは、まったく比べ物になりません。イエスが感じていること、それだけが全てを越える真理を指し示しているのです。そう考えれば、イエスの思いの前には当然、自分の思いを手放すべきだということがよく分かるでしょう。
 自分の欲しいものではなくイエスの欲しいものを求めようとする姿勢、自分のしたいことではなくイエスのしたいことをしようとする姿勢、自分の感情ではなくイエスの愛を人に伝えたいと望む姿勢、それこそが「自己放棄」であり、祈りだと思います。
(2)「神の手の中の鉛筆」
 マザーは、よく次のようにも言っていました。
「わたしは神様の手の中の小さな鉛筆に過ぎません。神が考え、神が書くのです。」
 マザーにとって、もはや考えるのは自分ではなく神であり、自分はただ神の手の中にあって神の思いを実現するための道具にすぎなかったのです。
 この言葉を聞くとき、わたしは自分を反省せずにいられません。わたしは何かを考えるにしても、するにしても、「わたしはこう考える」とか「わたしはあれをしたい」という風にばかり思ってしまうからです。何を思うにしても、主語はいつも「わたし」なのです。
 思い切って、主語をすべて「神」に変えることができれば、どんなにすばらしいでしょうか。何よりも大切なのは、「わたし」が何を考えるか、「わたし」が何をしたいかではなく、「神」が何を考えるか、「神」がわたしという道具を使って何をしたいかなのです。自分の考えの主語が「わたし」ばかりになっていないか、一日のうち何回か確認したいものです。
 神の思いを探し求めながら自分の考えや行動を振り返っていくなら、その確認自体が祈りになるでしょう。その作業は、キリスト教の伝統で「糾明」と呼ばれる祈りに他なりません。
(3)「解放を求める祈り」
 では、マザー・テレサ本人は初めからあらゆる執着を手放すことができたのでしょうか。マザーの作った次の祈りから判断すると、どうやらそうでもないようです。
「イエスよ、わたしを解放してください。
 愛されたいという思いから、評価されたいという思いから、
 重んじられたいという思いから、ほめられたいという思いから、
 好まれたいという思いから、相談されたいという思いから、
 認められたいという思いから、有名になりたいという思いから、
 侮辱されることへの恐れから、見下されることへの恐れから、
 非難される苦しみへの恐れから、中傷されることへの恐れから、
 忘れられることへの恐れから、誤解されることへの恐れから、
 からかわれることへの恐れから、疑われることへの恐れから。」

 マザーほどの人でも、人から愛されたい、人からよく見られたいという思いを手放すのはかなり難しかったようです。「人から認められたい」というのは、ヘーゲルという哲学者も指摘している通り、人間の最も根源的な欲求の一つなのでしょう。マザーでさえ、人がどう思うかといことを考えずにはいられなかったのです。
 周りの反応を気にするのは仕方がないにしても、そのとき主語を「他人が」ではなく、「神が」に変えられればすばらしいと思います。一番大切なのは、わたしの行動を見て「他人が」どう思ったかではなく、「神が」どう思ったかだからです。移ろいやすい人間の目を気にするのではなく、なによりもまず永遠の神の目を気にして行動することができればと思います。
(4)「キリストとの一致」
 何を思うにしても、主語をすべて「わたしが」から「神が」に変えることができたとき、自分の行動の基準を他人の目ではなく神の目に置き換えることができたとき、そのときイエス・キリストとの完全な一致が実現します。マザーは、次のように言っています。
「空っぽになることで、わたしたちは人生において十分に受け取ることができ、わたしたちの中でイエスが自分の人生を生きられるようになるのです。」
 神にすべてを委ねて心から「わたし」が消えたとき、わたしの心がすっかり空っぽになったとき、わたしたちの心に神の愛が豊かに注がれます。そのとき、わたしたちの中で生きているのはもはや「わたし」ではなくイエスなのです。パウロは、このことを次のように表現しています。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
(5)自己超越
 自己放棄は、神に向かう自己超越と言い換えることもできます。自分の思いを乗り越えて、神の思いに自分を一致させていくこと、それが自己超越です。
 カール・ラーナーという神学者は、自己超越が起こったとき、そこに必ず聖霊の体験が起こると言っています。神に向かってわたしたちが自分を差し出すとき、神様は必ずわたしたちをキリストの霊で満たしてくれるというのです。キリストの霊と一致したとき、わたしたちの心にどこからともなく静かな喜びと力があふれ出してきます。それが聖霊の体験です。
(6)十字架における祈りの完成
 祈りが自己放棄だとすれば、祈りの完成はイエスの十字架上での祈りに違いありません。イエスが十字架上で自分の思いを完全に放棄し、自分の命さえも神に差し出して完全に空っぽになったとき、人類の歴史の中で初めて完全な「神の愛」がイエスの心を満たしました。人間の完全な自己放棄が、神からの完全な自己譲与を可能にしたのです。ここに祈りの完成があり、人類の救いの完成があります。
 祈るとき、わたしたちはいつもこのことを思い出したいものです。わたしたちが自分を放棄すればするほど、神様はわたしたちの心に恵みを豊かに注いでくださいます。それこそが、キリスト教の救いなのです。キリスト教の救いは、たくさんのものを得て自分を大きくすることによってではなく、持っているものをすべて手放して自分を小さくするときに実現する、極めて「逆説的」な救いなのです。
 人生の最後にわたしたちが自分の命さえも神に差し出して完全に空になったとき、そのときこそ待ちに待った救いが完成するでしょう。そのとき、わたしたちは神と完全と一致し、もはやなにものによっても神から引き離されることがなくなります。
(7)不偏心
 聖イグナチオは、イエスに向かってまっすぐに整えられた心、いかなる被造物への執着も持たない心を不偏心と呼びました。神に向かって完全に秩序づけられ、いかなる偏りもない心という意味です。聖イグナチオは、この心を持つことこそ祈りの初めだと考え、『霊操』の冒頭に置かれた「原理と基礎」という文章の中でまずこの心を持つようにと勧めています。自己放棄による不偏心こそ、すべての祈りの始まりなのです。
(8)クリスマスの実践
 マザーは、イエスとの出会いが自己放棄から始まることを修道女たちに教えるため、待降節になると毎年おもしろいことをしていました。聖堂に馬小屋を造り、その中に空の飼い葉桶を置くというところまでは普通なのですが、マザーは空の飼い葉桶の隣にもう一つ別の箱を置きました。わらが一杯に詰まった箱です。
 それらを前にして、マザーは修道女たちに言いました。
「これからクリスマスまで、あなたたちが何か一つイエスのために犠牲を捧げたとき、この箱の中のわらを一本取って飼い葉桶にいれなさい。そうすれば、クリスマスまでにこの飼い葉桶はわらで一杯になってイエスを迎えるのにちょうどよくなるでしょうし、あなたたちの心にはイエスをお迎えするのにふさわしい空間ができあがるでしょう。」
 自分の思いを犠牲にして、本当は話しかけたくない人に話しかけたとき、ゆるしたくない人をゆるしたとき、大切な時間を誰かのために捧げたとき、そのときわたしたちの心にイエスを迎えるのにふさわしい空間が生まれるというのです。
 これは、なにもクリスマスの前だけに限らないでしょう。せっかく来てくださったイエスをがっかりさせないために、イエスを迎え入れるための空間をいつも心の中に持っていたいものです。
3.まとめ
 今回は、「空っぽ」という言葉を手がかりにして祈りについて考えてみました。「沈黙」とは別の角度からのアプローチでしたが、語っていることはただ一つの現実です。自分の心を黙らせることは、自分の心を空にするのと同じことであり、どちらも神様に心を開くということなのです。祈りとは、沈黙の中で神の声に耳を傾け、空の心にイエスを迎え入れることなのです。
 マザーは次のように語っています。

「人々が知りたいのは、あなたがどのように祈っているかということです。若い人たちはあなたがどのように祈り、またどのように貧しさを生きているか、それを見たいのです。彼らはもうそれについて聞きたくはないのです。」
 この言葉を肝に銘じつつ、祈りについて語るのはこのくらいでやめておこうと思います。みなさんも、どうぞ実際に祈ってみてください。

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