バイブル・エッセイ(94)召命の歩み

 このエッセイは、8月4日、聖ヨハネ・マリア・ビアンネの記念日のミサでの説教に基づいています。

 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。
 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
(マタイ14:22-33)
 全ての司祭の守護聖人と呼ばれる聖ビアンネが帰天して150年になる今年を、カトリック教会は「司祭年」と定めました。なぜ、聖ビアンネはたくさんいる聖人の中でも特に選ばれて司祭の守護聖人と呼ばれるのでしょうか。
 聖ビアンネは、人間的な目で見たときあまり能力に恵まれない人だったようです。当時ラテン語で行われていた哲学や神学の勉強に、ついていくことができなかったと言われています。しかし、イエスに自分の全てを捧げつくす熱心さを認められ、かろうじて司祭叙階されたそうです。司祭叙階後、アルスという小さな村の教会に派遣された彼は、聴罪司祭として国中に名前を知られるようになっていきました。告解室の中で、ひたすら人々の弱さに寄り添い続けたのです。
 おそらく、聖ビアンネは自分の力により頼むことが全くない人だったのだろうと思います。自分の弱さを受け入れ、イエスに全てを捧げて人々の弱さに寄り添い続けた人、それが聖ビアンネだったのでしょう。そう考えると、彼が司祭の守護聖人と呼ばれるのはもっともなことに思えます。司祭召命の道は、自分の力により頼まず、イエスに全てを捧げたときにだけ歩み続けられる道だからです。
 それはちょうど、水の上を歩くペトロの歩みに似ています。エスの方を向き、イエスを信頼して歩んでいるあいだペトロは水の上を歩くことができました。ですが、イエスから目をそらし、自分の力で歩こうとしたときペトロは水に沈んでいきました。それと同じで、司祭召命の道も、ただイエスだけを見、イエスに全てを委ねている限り歩き続けることができます。自分の力により頼み、不安に陥ればすぐに沈んでしまうでしょう
 聖ビアンネに倣ってイエスだけにまっすぐ目を向け、イエスにすべてを委ねてこの道を歩み続けたいものだと思います。
※写真の解説…淡路島、慶野松原にて。