バイブル・エッセイ(95)カナンの女

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エスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
エスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
(マタイ15:21-28) 
 娘の苦しみを見かねた母親が、半狂乱のようになってイエスに救いを求めています。ですが、イエスは彼女に対して「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」と答えました。イエスは、なぜそんなことを言ったのでしょう。
 ユダヤ人としてユダヤ教文化の中で育ったイエスは、初めのころおそらく自分が救うべき民は「イスラエルの家」、つまりユダヤ人だと考えていたのでしょう。ですが、この異邦人の女性の謙遜な態度を見たとき、イエスの心は大きく揺さぶられ、変えられていきました。ユダヤ人たちが、まるで自分たちこそ食卓の主であるかのような尊大な態度をとったと対照的に、この女性は自分を救いに値しないものと認めた上で神の憐れみにすがったからです。
 イエスが探し求めていた信仰は、まさにこのようなものでした。自分には一切より頼まず、ただ神だけにより頼む信仰をこそイエスは求めていたのです。皮肉なことに、イエスはそのような信仰をユダヤ人の中にではなく異邦人の中に見出すことになりました。
 この異邦人の女性の謙遜さを見習いたいと思います。わたしたちは御聖体を頂くとき、自分は当然これを受けるに値するというような態度で頂くことがないでしょうか。自分は罪深く、御聖体を受けるには値しないけれども、ただ神の憐れみに全てを委ねますと祈りながら御聖体を受けているでしょうか。深い感動と感謝のうちに御聖体を味わっているでしょうか。いつも自分に問いかけながらミサにあずかりたいものだと思います。
※写真の解説…ニッコウキスゲ。六甲山高山植物園にて。