カルカッタ報告(24)8月26日ヘンリー大司教②


 ヘンリー師と話していると、3分に1度はジョークが飛び出してくる。ユーモアのセンスがあるのと同時に、よほど回転の速い頭脳を持っているのだろう。それでいて軽薄な感じはまったく受けない。重みのある言葉の端々にジョークを交えるので、余計におもしろいという感じの笑いだ。
 しばらくマザーの楽しい思い出話しをしたあと、ヘンリー師はデュアルテ神父とわたしに叙階されて何年になるのかと尋ねた。デュアルテ神父が2年、わたしが1年だと答えると、ヘンリー師は「わたしは叙階されて51年になるし、これまでたくさんの若い司祭の養成に関わってきたが、一番難しいのは最初の5年間だと思うよ」とおっしゃった。最初の5年間でその司祭の司祭職を遂行する姿勢が固まり、そのあとそれを変えるのはとても難しいからということだ。「2人ともまさにこれからが一番大切な時期だから、キリストの司祭としてふさわしい自分のあり方を謙虚な心で探し求めなさい」とヘンリー師はわたしたちにアドバイスしてくださった。
 そのアドバイスを聞いて、わたしは胸の中にあった1つの疑問をヘンリー師にぶつけてみることにした。「近頃、日本の教会では信徒の時代ということが盛んに言われて、司祭と信徒の役割分担のあり方が問い直されています。そのような状況の中で、司祭としてのアイデンティティーを見出すのが難しいと感じることがあるのですが。」わたしがそう尋ねると、ヘンリー師は次のように答えられた。
 「これまでのように司祭が何でもやる司祭中心の教会は、確かに変えられなければならない。わたしも信徒の団体の養成に力を入れ、そのために本を書いたりしている。だが、一つだけ絶対に変わらないことがある。それは、教会の中で、その人格においてイエス・キリストの役割を果たすのは司祭だけだということだよ。
 その言葉を聞いて、わたしとデュアルテ神父は思わず顔を見合わせた。確かにその通りだ。だが、それは一体どれほど重い責任なのだろうか。わたしにそんな重責が担えるのだろうか。さまざまな思いがわたしの脳裏をよぎった。だが、それ以上のことはヘンリー師に聞いても仕方がない。わたしたち自身が神様とのあいだで解決していくべき問題だろう。
 わたしたち若手司祭に大きな宿題を残しつつも、楽しい朝食の時間はあっという間に過ぎて行った。そろそろヘンリー師が帰らなければいけない時間だ。Sr.プレマがヘンリー師をマザーの墓へと案内したので、わたしたちもそのあとについて1階に下りた。
 大きな墓石の上には、いつもマザーの言葉がサフランの花で書かれているが、今日は「誕生日おめでとう、マザー」と書いてあった。部屋に入って墓前で黙祷するヘンリー師に、Sr.プレマが火のついたキャンドルを渡した。墓の上に置かれたキャンドルに火を灯してくれということだ。ヘンリー師が数本のキャンドルに火をつけたところで、シスターたちの合唱が始まった。日本でもおなじみの「ハッピーバースデー」の歌だ。
 シスターたちと一緒に「ハッピーバースデー」を歌うヘンリー師の顔には、かすかな悲しみが漂っていた。生前のマザーの笑顔を、墓と重ね合わせて思い出しておられたのかもしれない。その表情が「わたしも、もうじきあなたのところに行きますよ」とマザーに語りかけているように、わたしには思えた。
※写真の解説…マザーの墓の上にキャンドルを灯すヘンリー師とSr.プレマ。