バイブル・エッセイ(280)イエスは生きている


エスは生きている
 エスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。(使徒1:3-9)
 主の昇天についてキリスト教入門講座で話していたときに、思いがけない質問を受けたことがあります。「イエス・キリストにとって昇天が栄光の完成だったというのはよくわかるのですが、でも弟子から見たらどうでしょう。これから起こる大迫害を前にして、イエスが自分たちを捨てて逃げたようには見えませんか」というのです。あまりに思いがけない質問だったので、わたしはしばらく口を開くことができませんでした。
 なぜイエスは昇天したのでしょう。そもそも、イエスがなぜ復活した姿を弟子たちの前に現したのかを考える必要があると思います。それは、ひとえに「御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示す」ためでした。十字架上での無残な姿を目撃し、イエスは死んでしまったと思っている弟子たちに、十字架は決して終わりではなかったこと、イエスは、そしてまたイエスの説いた真理は今も生きていることを証するための復活だったのです。弟子たちに姿を見せることなく、直接に天の栄光へ挙げられることも可能だったはずですが、実際に見たり聞いたり、触ったりしなければ信じることのできない弟子たちの弱さを思いやって、神は弟子たちに復活のキリストとの出会いの恵みを与えてくださったのです。
 今や、弟子たちは復活したキリストとの出会いを通して、イエスが生きていることを確信しました。今度は、弟子たち自身が「イエスが生きていること」の証として、全世界に旅立っていく番です。このときにあたって、もしいつまでもイエスが地上にいれば、弟子たちは目に見えるイエスに執着して遠くまで旅をすることができないかもしれません。新しくイエスを信じた人たちも、きっと目に見えるイエスに頼り続けることになるでしょう。イエスに会うために、わざわざパレスチナまで旅をする人たちだってたくさん出てきただろうと思います。
 そこでイエスは、目に見える姿を消し、目に見えないキリストの霊をわたしたち一人ひとりの心に送ることにされました。今や、目をつぶって心の目を開きさえすれば、わたしたちは世界中どこにいてもキリストと出会うことができるようになりました。どんな迫害が来たとしても、わたしたちがいつどこにいても、「生きているイエス」がわたしたちの心の中にいてくださるのです。弟子たちにとって、わたしたち一人ひとりにとって、これ以上に大きな励ましがあるでしょうか。イエスは決して、わたしたちを見捨てたわけではないのです。
 神にすべてを委ねて命を差し出したイエスの生涯は、決して失敗ではなかった。イエスは今も、わたしたち一人ひとりの中に生きている。わたしたちは、そのことの証人としてこの世に遣わされました。キリストの霊と共に生き、地の果てまでも「生きているイエス」を伝えてゆきましょう。
※写真の解説…長崎、夕暮れどきの稲佐山上空に現れた雲。