祈りへの招き(5)レクチオ・ディヴィナ

レクチオ・ディヴィナ
 近頃、教会の中で「レクチオ・ディヴィナ」という言葉をよく聞くようになりました。「レクチオ・ディヴィナ」とは一体、なんのことでしょう。「余談(11)」で御紹介した本などに基づいて簡単にまとめてみましたので、どうぞ参考になさってください。
1.レクチオ・ディヴィナとは何か?
 レクチオ・ディヴィナとは、教会で伝統的に行われている霊的読書のこと。対象は聖書である場合も、聖人の書き物等である場合もある。単に頭で理解するだけでなく、ゆっくり時間をかけながらテキストを味わっていく。テキストを、歴史的な言葉であると同時に、今ここで自分に語りかけられている言葉として読む。さらに、その語りかけに対して応答していく。
 『霊操』で言えば、「思い巡らす祈り」の方法に近い。「観想の祈り」の方法とともに、場合に応じて活用としていくとよい。
2.四段階
「ある日のこと、手作業をしながら霊的修練について考えていると、ふと読む、黙想する、祈る、観想するという四つの霊的段階が心に浮かびました。それは、隠世修道者のために地上から天までかけられている梯子です。」(12世紀のカルトゥジオ会修道士、グイゴ2世の言葉)
⇒厳密には分けられないが、聖書に基づく祈りとは何かを理解するために役立つ分析。
(1)レクチオ(読書)
①頭で読む…テキストに何が書かれているかをある程度理解する。分からない言葉や表現については、注解書などを参照する。
②心で読む…頭で理解したことを、心にしみこませていく。ゆっくり時間をかけ、テキストの言葉を自分自身に今ここで語りかけられた言葉として聞く。
(2)メディタチオ(黙想)
 テキストが自分に語りかけている言葉をさらに思い巡らしていく。自分がおかれている具体的な状況の中で、その言葉はわたしに何を語っているのか。その言葉は、どのような意味でわたしに救いをもたらしてくれるのか。その言葉を聞いて、わたしは何をすればいいのか。絶えずテキストの言葉に耳を傾けつつ考える。
(3)オラチオ(祈り)
 受け取ったメッセージへの自然な応答として、悔い改めの祈りや感謝の祈り、聖霊の助けを求める祈りなどが生まれる。
(4)コンテンプラチオ(観想)
 神との対話が進んでいくと、次第にテキストを離れて神の存在そのものを目の前に感じられるようになる。知的に考えることをやめ、神の愛の中にやすらぐ。ここで「観想」というのは、イグナチオ的観想のことではない。
3.聖書の読み方に内在する緊張感
 二つの異なるアプローチがあり、緊張感を生み出している。両者は、対立すべきものではなく補完し合うべきもの。霊的なアプローチに近い「レクチオ・ディヴィナ」は、歴史批判的なアプローチによって支えられる必要がある。
(1)歴史批判的なアプローチ…原典にあたり、テキストの本来の意味を学問的に解明していく。
⇒聖書を読むために語学や高度の歴史的、神学的知識が要求される。いくら解明していっても、頭での理解に終わる可能性がある。一般信徒を聖書から遠ざける傾向。
(2)霊的なアプローチ…読んだ言葉を今ここで自分自身に語りかけられた言葉として読み、自分自身にとっての意味を見出していく。
⇒高度な知識は必要がないが、思い込みに基づいた勝手な読み方に陥る危険性がある。一般信徒を聖書に近づける傾向。
4.具体的な進め方
・個人で祈ることもできるが、数人で集まって、分かち合いを交えながら進めていくこともできる。
例.聖書を音読し、司祭等が字句を解説する。⇒沈黙。ゆっくり時間をかけて聖書の言葉を理解する。⇒自分の理解をみんなと分かち合う。⇒もう一度聖書を音読する。⇒沈黙。知的な理解に基づいて、今度は今ここで神が何を自分に呼びかけているかを感じる。⇒感じたことを分かち合う。