バイブル・エッセイ(431)『神のことばは愛』


『神のことばは愛』
 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ11-5、9-14)
 ヨハネは、福音書を「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」と始めています。神がこの世界に語りかけるとき、その言葉は愛です。神の愛が人と成り、この世界にやって来られたのがキリストだと言っていいでしょう。
 ところが、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と書かれています。せっかく神の言葉が来て下さったのに、神がわたしたちに直接語りかけて下さったのに、人間は神の言葉を受け入れなかったのです。人間が、素直に神の愛を受け入れられないのはなぜでしょうか?
 一つの理由は、自分自身への執着だと思います。たとえば、神のことばがやって来て「あの人と仲直りしなさい」と語りかけても、「いや、絶対にそんなことはできません」と拒んでしまう。「あの人を助けてあげなさい」と語りかけても、「いま忙しいからまたあとで」と拒んでしまう。そんな風にして、せっかく神のことばが救いに至る道を示してくれても、わたしたちはそれを拒み、憎しみや妬み、争いの闇の中にとどまろうとしてしまうのです。フランシスコ教皇が指摘したとおり、「わたしたちは救われないのではなく、救われたくない」のかもしれません。ひどい場合には、律法学者やファリサイ派の人々のように、神のことばを逆恨みし、葬り去ろうとしてしまうことさえありえます。
 神の言葉を受け入れられないもう一つの大きな理由は、自分が愛されるに値しないという思い込みでしょう。「わたしはいい仕事にもつけなかったし、幸せな結婚もできなかったし、学歴も資格もないし、容姿もさほどでない。だから、愛されるに値しない」というような思い込みは、わたしたちの心を固く閉ざしてしまいます。神のことばがやって来て「わたしはあなたを愛しています」と語りかけても、「いや、わたしなんか愛されるに値しませんから」と拒んでしまうのです。「何かができなければ人間として価値がない」というこの世の価値観に縛られ、自分を愛することができないとき、わたしたちは神の愛を受け入れることができないのです。
 神のことばを受け入れさえすれば、わたしたちは「神の子」になる資格を与えられると聖書は語っています。神の愛に答えて神と愛の絆で深く結ばれるとき、わたしたちは「神の子」となるのです。どんなときでも神の愛の温もりに心を満たされ、喜びと力に溢れた人生を送ることができるのです。自分にしがみつき、エゴの闇の中にとどまっているのはもったいないことです。神がわたしたちをこれほどまでに愛して下さっているのに、自分で自分を拒んでしまうのはもったいないことです。
 今日、キリストは、わたしたちをエゴの束縛、地上の価値観から解放するためにやって来られました。キリストの愛の前で、わたしたちを固く縛っていたエゴの鎖は千切れ、地上の価値観は崩れ去ります。いまこそ、キリストの愛によって解放していただくときです。闇から解き放たれ、「神の子」として愛の光の中に駆け出してゆく恵みを願って祈りましょう。
★主のご降誕・深夜ミサでの説教『下りてきてくださる神』を、音声版でお聞きいただくことができます。どうぞお役立てください。