イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4:16-21)
イエスと出会い、イエスの声を聞いたとき、救いが実現しました。捕われ人は解放され、目の見えない人は見えるようになり、圧迫されている人は自由になったのです。
わたしたちにもこの救いが今、実現します。イエスの大きな愛に包みこまれ、その温もりの中に憩うとき、わたしたちの心は人間的な思いへの捕われから解放され、曇っていた目は見えるようになり、あらゆる恐れから自由になるのです。
例えば、怒りに捕われ、燃え上がる憎しみの炎の中に閉じ込められていた人は、イエスの愛に触れてその牢獄から解き放たれます。憎しみの炎の中にとどまって苦しみ続けることが、どれだけ愚かなことから悟るからです。また、イエスの愛に触れることでその人は目を開かれ、憎いと思っていた相手も神の子であることに気づきます。そして、相手をもはや恐れる必要がないことに気づき、自由になっていくのです。
また例えば、誰かを失いたくないという思いにとらわれた人は、その執着から解放されます。イエスがそばにいてくれるなら、自分は孤独ではないと悟るからです。また、その人は目を開かれ、人間が出会うために距離や生死は関係がないことに気づかされます。そして、誰かがいなくなることへの恐れから自由になっていくのです。
このようにして今、わたしたちの心の中に救いが実現しようとしています。ミサの中で解放され、目を開かれ、自由になって、喜びに満ち溢れた福音宣教者としてこの世界に派遣されていきましょう。
※写真の解説…大阪城公園の蝋梅。