バイブル・エッセイ(116)憎しみを越える愛


 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。(ルカ4:21-30)

 怒り狂い、殺気だった暴徒の間を通り抜け、イエスは何事もなかったかのように立ち去って行かれました。人々の悪意や憎しみは、イエスを害することができなかったのです。なぜでしょうか。
 それは、イエスの全身から神の愛が溢れだしていたからだと思います。御言葉において神と完全に一致していたイエスの心からは、神の愛が泉のようにこんこんと湧き出していました。その愛は、どのような悪意や憎しみも押し流してしまうほど豊かで強いものでした。イエスの全身からあふれ出すその愛が、人々の暴力からイエスを守ったのでしょう。
 神の愛は、いかなる悪意や憎しみにも打ち勝ちます。たとえ誰かがわたしたちの心を傷つけようとしても、もし心の底から神の愛が豊かに湧き出しているなら、彼らはわたしたちを傷つけることができません。溢れだす愛に阻まれ、彼らの悪意や憎しみはわたしたちの心の深みにまで達することがないからです。
 彼らの悪意や憎しみに目を向けて彼らを恐れたり、怒りに対して怒りを返すならばわたしたちは滅びていくでしょう。しかし、いつも目を神に向け、神の愛と一致しているならば決して滅びることはないのです。どのような悪意や憎しみに直面したとしても、ただ神の愛だけに目を向け、その間を悠然と通り過ぎていきたいものです。
※写真の解説…冬枯れの木と石垣。大阪城公園にて。