カルカッタ報告(96)説教「清い心は神を見る」


 エスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ7:18-23)

 イエスがここで挙げている諸悪には、1つの共通点があると思います。それは、どれも自己中心的な考えや行動だということです。神のことも周りの人のことを無視して自分の利益だけを求める思いや、そこから生まれる行動がその人の心を汚すということでしょう。マザー・テレサ「清い心は神を見ることができる」と言っていますが、汚れた心とは自分のことばかり見て神を見ることができない心だと思います。
 今回の旅の中で、そのことを実感させられる体験がありました。それは、14年ぶりに「死を待つ人の家」でボランティアをし、昔と同じように患者さんたちの手足をマッサージしていたときの出来事です。栄養失調で枯れ木のように細くなったある患者さんの足に触れ、肌のぬくもりを感じたとき、わたしはそのぬくもりのなかにイエスがおられるのをはっきり感じたのです。患者さんの虚ろな眼差しが、わたしたちの愛情を求めるイエスの眼差しと重なったような気さえしました。
 これは思いがけないことでした。なぜなら、14年前には求めても得られなかった体験だからです。14年前、「貧しい人々の中にイエスを見なさい」というマザーの言葉を聞いて、わたしは懸命にそうしようと努力しました。ですが、結局できませんでした。この体験のあと、わたしはなぜこんな変化が起こったのだろうと考えました。
 今から思えば、14年前のわたしの心は今よりもっと汚れていたのだろうと思います。当時のわたしは、苦しんでいる人たちの姿を見ながら、「どうしたらわたしはこの人の中にイエスを見いだせるのだろう」とか、「どうしたらわたしはマザーのようになれるのだろう」というようなことばかり考えていました。つまり、目の前にいる人のことを考えずに、「わたし」のことばかり考えていたのです。その他にも、「ここでの働きはわたしの将来にどんな意味があるんだろう」とか、「これだけの貧しさを前にしてわたしに何ができるのだろう」とか、考えていることの中心はいつも「わたし」でした。14年前のわたしの心は、そのような自己中心的な思い汚れていたから神を見ることができなかったのだろうと思います。
 叙階とは、自分の全てを神に差し出すことによって神から全てをいただく恵みだと思いますが、おそらくその恵みがわたしの心を清めてくれたのでしょう。今回、患者さんの前に無力な自分を差し出したわたしに、イエスはご自身の存在をはっきり示してくださいました。この恵みの体験を、しっかりと胸に刻み込みたいと思います。自分の無力さを受け入れ、自分のことを考えるのをやめて目の前にいる人に心を開くときにだけ、イエスはご自身の姿を現してくださるのです。自分への執着から清められた心だけがイエスを見るのです。
 自分中心の考え方を捨て、ただ目の前にいる人を、その人の中にいるイエスを見ながら生きていきたいと思います。そのために、この御ミサを通して自分の全てを神に捧げ、心を清めていただけるよう祈りましょう。 
※写真の解説…「死を待つ人の家」を訪れたマザー。