マザー・テレサに学ぶキリスト教(26)司祭年を考える

第26回 司祭年を考える
 2009年6月19日、「イエスのみ心の祭日」からアルスの聖なる主任司祭、ヨハネ・マリア・ビアンネの没後150年を記念して司祭年が始まりました。司祭年とは一体何なのでしょうか。現代社会を生きる司祭たちに、今何が求められているのでしょうか。教皇様とマザー・テレサの言葉を引用しながら考えてみたいと思います。
1.司祭年とは
(1)期間
 2009年6月19日〜2010年6月11日
「イエスのみ心の祭日」に始まって「イエスのみ心の祭日」に終わります。なぜこの日が区切りとして選ばれたのか説明がありませんが、おそらく聖ビアンネが「イエスのみ心」の信心に熱心であったことが理由だろうと思われます。
(2)目的
 ベネディクト16世の言葉から、司祭年の目的について言及したものを引用してみます。
「司祭年は全司祭が心の刷新への努力を深めることを目的としています。それは、現代世界にあって力強く、はっきりと福音を証しすることができるようになるためです。」
 福音宣教のために、司祭の霊的刷新を促進することが司祭年の目的だということでしょう。司祭の霊的刷新が必要な状況が生まれているという危機感が背後に感じられます。
「司祭年の目的は『奉仕職の効果が何よりもその上にかかっている、霊的な完徳を目指す』すべての司祭の努力を支えることです。そして、何よりも、司祭とともにすべての民とが、叙階された奉仕職が、叙階を受けた人と、全教会と、世界に対して示す特別で欠くことのできない恵みのたまものに関する自覚を再発見し、強められるようにすることです。」
 この言葉には、次の2つの要素が含まれていると考えられます。
①奉仕のために必要な、司祭の霊的完徳を促進する。
②司祭と信徒が叙階の恵みの尊さを再発見し、恵まれていることの自覚を深める。広く解釈すれば、召命の促進も含まれるかもしれません。
「わたしは司祭年が、すべての司祭を内的に刷新し、そこから、司祭の使命への献身をしっかりと強化するための機会となることを心から望みます。」
 司祭に向けて、次の2つのことが呼びかけられています。
①司祭の内的刷新。
②使命への献身の強化。全身全霊を上げて奉仕職に取り組む態度の養成。

2.現代の司祭観
 教皇様は、現代社会においては2つの司祭観があり、それらの間に緊張感があると指摘しておられます。
(1)社会的・機能的な司祭理解
 司祭職の本質が、教会共同体への奉仕にあるとする考え方です。極端に進むと、司祭職も教会の中にある役割分担の一つであって、司祭と信徒の間に本質的な違いはないという考え方になります。
(2)秘跡的・存在論的な司祭理解
 司祭職の本質が、秘跡による存在論的な変化にあるとする考え方です。この考え方によれば、司祭は、叙階の恵みによって全存在を変えられた特別な人だということになります。極端に進むと、司祭は司祭であるだけで尊く、信徒よりも優れているという考え方になります。
(3)両者の内的統合
 教皇様は、この2つの考え方は本来矛盾するものではなく、内的に統合されるべきものだとおっしゃいます。その根拠は、次の言葉にはっきりと示されています。
「みことばの『声』であることは、司祭にとって単なる機能としての側面ではありません。反対に、それはキリストのうちに本質的な意味で『自分を失い』、全存在をもってキリストの死と復活の神秘にあずかることを前提としています。」
 司祭がイエス・キリストの「声」として神の民に奉仕するためには、本質的、存在論的にイエス・キリストの死と復活の神秘にあずかっていなければならないということです。神に全てを差し出すことでイエスの十字架と結びつき、復活の命によって本質的に変えられることでのみ、司祭は教会共同体に奉仕することができるのです。
 すべての信者は洗礼によってイエスの十字架と復活に結ばれていますが、司祭は叙階の秘跡によってより深くそれらと結ばれると考えたらどうかと思います。司祭としての奉仕のために自分を完全に神に捧げ、新たに生まれ変わった人、それが司祭ということではないでしょうか。
3.教皇様とマザー・テレサが提示する司祭像
(1)ベネディクト16世の司祭像
・聖ビアンネの言葉からの引用
「ああ司祭とはいかに偉大なものでしょう。司祭は自分がいかなる者であるかを知るなら、死んでしまいます。…神は司祭に従います。司祭が二言唱えると、主はその声にこたえて天から下り、小さなホスチアの中に入るのです。」
「司祭とはイエスのみ心の愛です。」/「神の他には司祭がすべてです。」
「誰も扉を開く人がいなければ、家が金塊で満たされていても何の役に立つでしょうか。司祭は天の宝を開く鍵を持っています。扉を開くのは司祭です。」

 秘跡の執行者として、神の恵みをこの世界にもたらす司祭職の尊さが強調されています。司祭である自分が尊い人間だと主張しているわけではなく、司祭職がそれほど尊いものだということを自分に戒め、また信徒たちにも理解させるための発言だと思われます。
・御自身の言葉
「キリストのあらゆる救いのわざは、彼の『子としての自覚』の表現でしたし、また今もそうであり続けます。キリストは永遠に父のみ前に立ち、完全な愛をもってそのみ心に従います。あらゆる司祭も、つつましくはあっても真実にこれと同じしかたで、この一致を目指さなければなりません。」
「教会は聖なる司祭を必要としています。すなわち、信者が神のあわれみ深い愛を体験する助けとなり、確信をもってあかしができる奉仕者を必要としています。」

 司祭が、神の御旨に従順であることにおいてキリストと一致することを教皇様は望んでおられます。そうすることで初めて、司祭は神の愛の目に見えるしるしとなることができるからです。
(2)マザー・テレサの司祭像
現代社会にあって、司祭はキリストと同じように神の生きた愛となるために遣わされたものです。司祭は神が現代社会を愛しているというしるしであり、生きている愛の炎であり、神の愛を全世界に照らす太陽であり、燃えさかる火であり、永遠の幸福への希望なのです。」
現代社会にあって、神はキリストに代わって司祭を通して世界を愛するのです。司祭は、もう一人のキリストなのです。」
「イエスに代わって使っていただくために、司祭はどれほど完全にイエスと一致していなければならないでしょう。イエスの名において言葉を発し、イエスの業を行い、罪を取り去り、普通のパンをイエスの体と血である生きたパンに変えるために。」

 マザーはいつも、「教会は聖なる司祭を必要としています」と言っていました。彼女が司祭に求める聖性とは、神に全てを捧げつくすことにおいてキリストと完全に一致しているということだったようです。
 同時にマザーは、「聖性は限られた人たちのための特権ではありません。それは、わたしたちすべてにとって単なる義務にすぎないのです」とも言っていました。信徒の一人ひとりにも、それぞれの仕方でキリストと一致していくことが求められているのです。
4.司祭年に対する疑問の声
 教皇様が描く聖なる司祭像に対して、以下のような疑問の声が上がっています。みなさんは、どう思われるでしょうか。
(1)結局のところ、司祭の優位につながる存在論的理解なのではないか。信徒と司祭は、人間として根本的な部分が違うのか。
(2)主任司祭であった聖ビアンネには、司祭としての協働の精神が欠けているのではないか。これからの教会は、信徒と司祭が対等に意見を交わしながら作り上げていくべきものではないか。
(3)現代の司祭は、世俗の中で福音を証しすべきなのではないか。聖ビアンネのように教会に閉じこもっている司祭は、現代に働く司祭のモデルになりえないのではないか。
(4)司祭がもう一人のキリストであることを強調しすぎると、信徒も同じようにもう一人のキリストであることが見失われるのではないか。信徒に、「すべて司祭任せ」の態度を生むのではないか。

5.アンケート
 クラスで行ったアンケートの回答をいくつかご紹介したいと思います。問いは「今、司祭たちに望むことはなんですか」というものでした。読んでいるうちに、まさに「天の声、人をして語らしむ」という気がしました。神の声として受け止めたいと思います。

・みことばの一言ひとことに感動を持つ霊的感受性を、いつも持っていてほしい。
・公平な態度で信者と接してほしい。
・教会、教区の方針などをよく説明してほしい。特に変わったときなど。
・よく勉強していただきたい。
・学者であることよりも、牧者であることが求められていると思います。
・声のかけやすい司祭。
・教会の建物の中にこもっていないで、外に出ていくこと。もう少し遊ぶこと。遊べば現代人の苦しみ、世俗社会の悪なども見えて、よりよい説教、伝えるものが出てくる。
・掃除、皿洗いなどで奉仕してくださることも望みます。
・神の道具、聖性の担い手に徹していただきたい。もちろん、生活のすべての面という訳ではなく、司祭として働かれる場においてです。
・親しさと人格のすばらしさを感じられる司祭であってほしい。それに加えて、知的レベルの高さを望む。
・生きとし生けるもの全ての父であってほしいと思います。
・抽象的な文言よりも、感性や体験的なものに触れたいです。
・誰に対しても公平に接してくださる司祭。司祭になる為には大変な努力と学びがあったと思うので、たとえ嫌な面があっても尊敬を失ってはいけないと自分に戒めています。
・難しいことですが、どのような方にでも平等に接してくださるよう望みたいです。
・一般信徒を上手に導くこと。つきはなさず二人三脚で。一方、信徒は奉仕職(預言職・王職・祭司職)を認識しあうこと。
・時間が許す限り、わたしたち信徒が常に信者としての原点に立ち返れるように聖書勉強会などで教えていただきたいです。
・司祭にこれ以上のことを何を望めばよいのでしょうか。ありがたく、感謝以外ありません。
若い人たちの苦しみや悩みによりそって、聖ビアンネのようであってほしいと思います。
・神様に仕える尊敬できる神父様であってほしいと思いますが、誰にでも話しかけてほしいです。
・いろいろなお考えをお持ちの神父様の中でも、ここだけはという一本の筋があれば信徒もついていけるかなと思います。

6.まとめ
 この講義を準備している間も、メディアは世界各地から連日のように司祭による不祥事を報じています。特にドイツで発生した事件は元イエズス会員たちによるものであり、わたし自身申し訳ない気持ちでいっぱいです。
 ご自分の司祭たちが引き起こした事件に直面し、今こそ司祭の霊的刷新をと呼びかける教皇様の心中はいかばかりかと思われます。わたしを含めて、司祭たちがこの呼びかけに真摯に応え、霊的刷新を図っていくことができるようどうぞお祈りください。