バイブル・エッセイ(123)木の周りを掘る


 そのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」(ルカ13:1-10)

 自分たちは義人だとうぬぼれ、決して悔い改めようとしないユダヤの人々を、イエスは実をつけないいちじくの木に譬えます。彼らの心はまるで痩せた土地のようで、そこに生える木、すなわち彼らの言葉や行いにも実りがないというのです。
 主人である神はいちじくに腹を立てて切り倒そうとしますが、「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と言って園丁が主人を引きとめます。最後の手段として、頑なで荒れた土地のような彼らの心を鍬で掘り起こし、そこに肥やしを入れるというのです。この園丁は、きっとイエス御自身のことでしょう。
 イエスがわたしたちの心を耕すために鍬を入れるとき、わたしたちの心は痛みを感じます。日常生活の中でわたしたちを訪れる心の痛みは、もしかすると、イエスがわたしたちの心を耕すために鍬を入れた痛みなのかもしれません。より頼んでいた何かが取り去られたときに感じる痛み、プライドを傷つけられたときに感じる痛み、それらは実は、イエスがわたしたちを回心させるための最後の手段として振り下ろした鍬が、心を砕く痛みなのかもしれません。その痛みが強ければ強いほど、わたしたちの心は深くまで耕されるでしょう。
 そのようにして耕されたわたしたちの心に、イエスは御言葉を肥やしとして撒かれます。柔らかい心の深みで受け止められた御言葉は、わたしたちの心のすみずみにまでゆきわたって、わたしたちの心を豊かな土壌に変えていきます。
 四旬節のあいだ、イエスに十分に心を耕しいていただき、砕かれた心に御言葉を受け止めていくことができればと思います。そうすれば、今度こそ「実がなるかもしれません」。 
※写真の解説…厳しい冬を越えて開花した教会のモクレン