バイブル・エッセイ(126)気付きにくい幸せ

 このエッセイは、3月14日に行われたカトリック平方教会四旬節黙想会のミサでの説教に基づいています。

 エスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。
 ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」(ルカ15:11-32)

 「福音の中の福音」と呼ばれるこのたとえ話には、神様の愛とそれを受け止める人間の思いが凝縮されており、読むたびに新しい気付きがあります。今回、わたしは息子たちの父の姿が自分の父の姿と重なって見えました。
 わたしの父は、埼玉県の田舎で農家をしていました。日曜も休日もなく毎日、朝早くから働いて、夜はビール1本か日本酒を1合飲み、9時には寝てしまうというような人でした。特に趣味もなく、父がどこかに遊びに行く姿をほとんど見たことがありません。服装も、地下足袋に作業服という、典型的な日本のお百姓さんの恰好をしていました。
 今から思えば、父は立派な人だったと思います。家族を守るために平凡な毎日の仕事を不平をいうこともなく淡々とこなし、自然や人々と調和しながら生きていたからです。キリスト教は信じていませんでしたが、父は父なりに、神様から自分に与えられた使命を果たしていたのでしょう。
 ですが、わたしは子どもの頃、そんな父の姿を見ながら「自分は絶対こんなふうになりたくない」と思っていました。田舎の平凡な生活のなかに埋もれてしまうことが、いやでいやで仕方がなかったのです。「都会に出てもっと華やかな仕事につきたい、出世して偉くなりたい」、そんな思いに駆られたわたしは、農業を継いでほしいという父の望みに反して大学に進学しました。
 もしかすると放蕩息子も、またその兄も、温厚な田舎の農夫である父の生き方に心から満足できなかったのかもしれません。弟は家を飛び出して都会に行き、財産を使い果たしてどん底まで落ちた時に、初めて父の偉大さに気付きました。兄は父から「わたしのものは全部お前のものだ」と言われた時、きっと自分がどれほど恵まれているかに気付いて目を覚ましたことでしょう。この物語は、父の偉大さに気づくことができなかった2人の兄弟の物語でもあるようです。
 わたしたちは、見かけの華やかさや楽しさに惹かれて、神から与えられたささやかな使命を淡々と果たし続けることの中にある幸せをつい忘れてしまいがちです。父と共に、父から与えられたささやかな使命を果たし続ける喜びを、どんなときでも忘れないようにしたいものです。 
 
※写真の解説…春爛漫の綾部山梅林。2009年3月撮影。