神と和解する
「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」(ルカ15:11-24)
「神と和解させていただきなさい」(二コリ5:20)とパウロは言います。神と和解するとは、どういうことでしょう。それは、神がお創りになったこの世界と和解すること。自分が置かれた現実と和解し、隣人たちと和解し、自分自身と和解することだと思います。わたしたちは、神が与えて下さる恵みだけで満足できず、神のもとから飛び出した放蕩息子のようなものです。神と和解するためには、神の恵みを感謝して受け入れ、神のもとに立ち返る必要があるのです。
放蕩息子は、なぜ家を飛び出したのでしょう。それはきっと、単調な農村での日々に満足できなかったからだと思います。自分が活躍する場はもっと他にある。都会に出て、もっと大きなことをしたい。きっと、そう思ったのでしょう。そこで、親からお金をもらって都会に出て行ったのです。しかし、現実はそんなに甘くありませんでした。彼は、だまされてお金を巻き上げられたり、誘惑に負けて放蕩したりして、たちまちのうちに全財産を使い果たしてしまいます。そのとき彼は、ふっと「我に返り」、かつて自分が嫌っていた「父の家」がどれだけすばらしい場所だったかに気づくのです。そこで自分は、どれだけ恵まれていたか。日々こつこつと農業に従事する父がどれほど偉大か。それに比べて、夢ばかり見て現実には何もできない自分はどれほど小さいか。そのことに気づくのです。破産の苦しみの中で彼は、現実を受け入れ、父を受け入れ、自分自身を受け入れます。そんな彼を、父なる神は目に涙を浮かべながら抱きしめたのです。それが神との和解ということです。神と和解するとは、神がお創りになったこの世界を、感謝して受け入れることなのです。
わたしたちは、神様が与えて下さるものに満足できず、腹を立ててしまいがちです。与えられた環境について、「こんな小さな会社に入るはずできなかった」とか「自分はこんなところにいる人間ではない」と苦情を言ったり、家族や友だちについて満足できず、「なぜうちの子どもはちっとも勉強しないのか」「なぜあの人はあんなにわがままなのか」などと考えたりします。そして誰より、思った通りに生きることができない自分自身に対して腹を立てています。「なぜ、このくらいのことしかできないか」「もっとうまくやることはできなかったのか」と自分を責めるのです。そのようにして神様が与えて下さるものに腹を立てるということは、すなわち神様に腹を立てていることに他なりません。
結局のところ、すべては高望みなのだろうと思います。神が与えて下さるものに不満をいい、すべて自分の思った通り動かそうとして失敗を繰り返す中で、わたしたちは自分の愚かさに気づいてゆきます。そして、自らが招いた苦しみのどん底で神の恵みのすばらしさに気づくとき、神との和解が成立するのです。神と和解し、あるがままの世界を受け入れるとき、わたしたちはその中で自分が果たすべき使命に気づきます。自分にふさわしい、地に足のついた本当の幸せを見つけ出すのです。放蕩息子にとって、それは父のもとでの農作業でした。わたしたちも、神様と和解し、自分の本当の道を見つけ出すことができるよう祈りましょう。