バイブル・エッセイ(128)沈黙の愛


 エスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語ゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエスユダヤ人の王」と書いてあった。
 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語ラテン語ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:17-30)

 イエスは、十字架上でじっと黙って痛みに耐えておられます。両手両足をくぎ付けにされた痛み、そして愛する弟子やユダヤの人々から裏切られた苦しみを沈黙の中で耐え忍んでおられるのです。この沈黙に、わたしはイエスの深い愛を感じます。
 そもそもイエスが十字架につけられたのは「神は愛である」、「全ての人は神から愛されている」という真理を、抑圧や病の中で苦しむ人々に証するためでした。彼らのために、イエスは自らをローマ兵たちの手に引き渡し、十字架を担われたのです。すべての痛みを沈黙の中に受け止めたのも、彼らへの愛ゆえでした。このように大切な誰かのために苦しみや痛みを黙って受け入れること、それこそが真実の愛ではないでしょうか。
 それは父母の愛にも似ています。口では家族を愛しているなどと言わなくても、家族のために黙々と日々の労働を耐え忍ぶ父の背中から、家事をこなす母の背中から愛はあふれ出ます。子どもたちは、その姿から父母がどれだけ自分たちを愛しているかを感じ取ることでしょう。大切な誰かのために自分を差し出すとき、苦しみを甘んじて引き受けるとき、そのとき初めて愛は実体をもつのです。
 イエスは公生活のあいだ厳しい生活に耐えながら貧しい人々、病の人々に福音を告げ知らせました。ついには、彼らのために十字架の苦しみさえも甘んじて受けました。そして、その苦しみが頂点に達したとき、イエスは一言「成し遂げられた」と言いました。何が成し遂げられたのでしょうか。神の愛を極みまで人類に示すという使命が成し遂げられたのです。イエスが全人類のために苦しみの極みを受け入れたとき、イエスからあふれ出す神の愛も極みに達したのです。
 十字架上のイエスの沈黙からにじみ出る、この深い愛を感じたいものです。この愛を感じることさえできれば、十字架はわたしたちにとってもはや苦しみでも悲しみでもなく、喜び、安らぎ、力の源となるでしょう。 
※写真の解説…こぶしの花と教会の鐘楼。