バイブル・エッセイ(129)イエス・キリストは生きている


 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。(ヨハネ20:1-10)

 イエスの遺体が墓から消えたというこの出来事は、一体何を意味しているのでしょう。イエスの死体が起き上がって歩き始めたということでしょうか。そうではないと思います。この出来事は、イエスが心も体も「神の国」と呼ばれる別の世界に移されたということのしるしでしょう。目には見えず、耳にも聞こえないけれどもわたしたちのまわりに確実に存在するその世界に、イエスは心も体も移されたのです。そして、今もそこで生きておられるのです。それが復活であり「永遠の命」とうことだと思います。
 この復活を、今わたしは毎日のように体験しています。それはマザー・テレサ写真展のお陰です。毎日、写真展会場に行ってマザーの写真と向かい合うたびに、わたしはマザーが写真の向こう側、目には見えず、耳にも聞こえないけれど確実に存在する世界からわたしにほほ笑みかけ、語りかけてくれているのを感じます。こうして死んだはずの人との出会いを体験し、生き生きとした喜びと力に満たされる、それこそが復活でしょう。たくさんの来場者の皆さんも、会場で写真だけではない何かに出会い、心満たされて帰って行かれるようです。
 残念ながらイエス・キリストの写真は残されていません。ですが、わたしたちにはそれ以上のものがあります。それは、ミサであり御聖体です。ミサの中でわたしたちは、賛美の声の響き、司祭や隣にいる仲間の存在、祈りのしぐさ、そして御聖体の向こう側、目には見えず、耳にも聞こえないけれど確実に存在する世界からイエスがわたしたちにほほ笑みかけ、語りかけてくださっているのに出会うことができます。
 心の目、心の耳を開くならば、わたしたちは必ず「生きているイエス・キリスト」と出会うことができるでしょう。そしてイエス・キリストと出会うことができれば、世界に向かって力強く「イエス・キリストは生きている」と宣言できるはずです。このミサの中で復活したキリストと出会い、愛と喜びに満たされた福音宣教者として世界に派遣されていきましょう。 
※写真の解説…醍醐寺のしだれ桜。2009年撮影。