マザー・テレサに学ぶキリスト教(30)ヒンドゥー教、仏教との対話

第30回ヒンドゥー教、仏教との対話
《お知らせ》写真展のため中断していましたが、昨年度の講座の講義録は今回で最後になります。本年度は『マザー・テレサの言葉を読む』というテーマで講座を行いますので、引き続きよろしくお願いいたします。六甲教会では4月13日(火)15:00から、三宮の女子パウロ会書店では4月16日19:00から新年度の講座を始めます。
 前回まで、マザー・テレサが諸宗教を信じる人たちとどう向かい合ったかについてお話してきました。今年度の講座の最終回である今回は、わたし自身の体験に基づいて、ヒンドゥー教や仏教とキリスト教の接点について考えてみたいと思います。
 第二バチカン公会議は、諸宗教の中にも「真理の光」があると宣言しました。キリスト教が諸宗教と出会ったとき、具体的にはどのような「光」を受けることができるのでしょうか。わたし自身の体験に基づきつつ、ヒンドゥー教、そして仏教との出会いについて考えてみたいと思います。

1.ヒンドゥー教の救いの原理
 「ヒンドゥー」という言葉は、インダス川サンスクリット名である「シンドゥー」に由来しています。インダス川の向こう側の国、インドにある宗教をさす言葉として「ヒンドゥー」が使われるようになったのです。今でも、インドの人々は自分の国のことを「ヒンドゥ・スタン」、すなわち「ヒンドゥー教の大地」と呼んでいます。
 前2000年頃侵入したアーリア人の宗教をもとにして1500年頃、ヒンドゥー教の母体、バラモン教が成立しました。彼らの聖典ヴェーダと呼ばれています。前500年頃、バラモン教は仏教の台頭に押される中で土着の信仰を吸収し、ヒンドゥー教に発展していきました。そして、5世紀頃までには仏教さえも吸収してしまったのです。
(1)究極の救い
 ヒンドゥー教における究極の救いは、梵我一如の境地に達することです。前9世紀頃成立したアーリア人の哲学、ウパニシャッド哲学が説く、万物に遍在する神(ブラーフマン)と個人(アートマン)が一つになる境地を、ヒンドゥー教も究極の理想として取り入れたのです。
 この思想は、8世紀、シャンカラによって「不二一元論」にまで高められました。シャンカラによれば、個は実在せず、神においてのみすべてが実在します。さらに彼は、西洋的なあらゆる二元論を否定し、概念によって実体を把握しようとする試みを否定します。この思想は、「アドバイタ」の思想と呼ばれ、現代インドのキリスト教神学に大きな影響を与えています。
(2)救いに至る4つの道
 ヒンドゥー教聖典「バガヴァット・ギータ」が説く3つの道に、スワミ・ヴィヴェーカナンダが1つを加えた4つの道を紹介したいと思います。「ヨーガ」と呼ばれるそれぞれの道は、すべて同一の頂点に至ると考えられています。
①ジュニャーナ・ヨーガ(知識による道)
「知的・哲学的人の道」と言われます。自分自身を究め、アートマンを知ることによってブラーフマンと一致する道です。他の道と同じく、そうすることで梵我一如の境地に達し、輪廻転生から解放されることを目指しています。聖典とグルを通して学び、学んだことを内省し、さらに瞑想によってその知識を直観するという3段階で進んでいきます。
②カルマ・ヨーガ(行為による道)
「活動的な人の道」と言われます。救いのためには知識だけではなく、行動が不可欠だと説く道です。もともとヴェーダの儀式は自分の大切なものを犠牲の火を通して神に捧げることでしたが、それが自分を捧げる行動によってブラーフマンと合一するという信仰に高められたものだと考えられます。ガンジーの実践に、この道の一つの境地が見られます。聖クリシュナは、次のように言っています。
「執着を捨て、成功と不成功を平等のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは、平等の境地である。」
 この教えは、神のみに最高の価値おおいて、他のことは健康・病気、富・貧困、短命・長寿などすべてどちらでもいいと考えなさいと説く聖イグナチオの教えと響き合っているように思われます。
バクティ・ヨーガ(信愛による道)
 「情緒的な人の道」と言われます。神へのひたすらな信心と帰依によって救われることを説く道です。バクティ・ヨーガの聖典には、次のように書かれています。
「実にわれに帰依せば、たとえ罪悪より生まれた婦女子、庶民、隷民たりといえども、すべて最高の帰趨に赴く。」
「たとい極悪人であっても、ひたすらわたしを信愛するならば、彼はまさしく善人であると見なされるべきである。」

 だれであっても、神へのひたすらな帰依、信愛によって救われるというのです。
 帰依の対象となる神は、唯一絶対の神でありながら様々な形をとって現れます。それは、さまざまな考え方や感じ方を持って生きる全ての人を救うためです。
 神が唯一であることを説明するために、キリスト教には三位一体論がありますが、ヒンドゥー教には三神一体論があります。宇宙の創造を司る神であるブラフマーと、宇宙の維持を司る神であるヴィシュヌ、宇宙の破壊を司る神であるシヴァは、唯一絶対の神の3つの現われにすぎないというのです。
 三神は、それぞれサラスバティー、ラーマ、ブッダなどの化身を持っています。さらに、ビィシュヌの妻、パールバーティードゥルガー、カーリーなどの化身を持ちますし、ガネーシャハヌマーンも崇拝されています。ですから一見すると、ヒンドゥー教多神教のように見えますが、実は一神教なのです。
④ラージャ・ヨーガ(心身統一による道)
 「神秘的な人の道」と言われます。静かな場所に座って、自らの感覚器官を制御し、瞑想によって精神を集中して「日常的な心の作用を止滅する」ことを目指す道です。ブッダもこのヨーガを行うことによって悟りに達したと言われています。この道は、中国に渡って坐禅に発展しました。
 またこの道は、13世紀、ハタ・ヨーガにも発展していきました。肉体的、生理的な鍛錬によって梵我一如の境地に達することを目指す道です。このハタ・ヨーガが、今、欧米や日本で流行っているいわゆる「ヨガ」です。宗教的清浄を目指す清めの六行法からアーサナ(特異なポーズ)の実践に進んでいくことに特徴がありますが、現在の「ヨガ」は清めを省略し、宗教色を薄めているようです。
2.ヒンドゥー教キリスト教との接点
 不二一元論のところで少し言及しましたが、インドの神学者たちは、ヒンドゥーの思想をキリスト教に取り入れようと努力しています。その代表は、ミカエル・アマラドスです。
 アマラドスは、西洋的な概念による実体の把握という考え方に疑問を呈しています。「はたして、すべてを言葉だけで説明しきることができるのだろうか」、ということです。西洋の学問は、すべて概念の定立と論理の操作を骨子として作り上げられていきますが、神に関する事柄を、例えば「聖霊」などの概念によって把握することには初めから無理があるのではないかとも考えられます。
 ヒンドゥー教では、神はもちろん、すべての実体は変化し、概念で把握することができないということが基本になっています。ですから、概念と論理を駆使して膨大な「神学の体系」を築きあげるというようなことはしません。「概念と論理に基づく知」ではなく、「直観と体験に基づく知」を重んじるヒンドゥー教では、本によってではなく業を重んじるヨーガによって知が伝達されていきます。
 アマラドスは、ヒンドゥー教のこのような知のあり方を取り入れた神学の可能性を示唆しています。彼によれば、アジアの神学は、例えばダンスや歌、絵だったりすることもありえるのです。そのような神学は、もはや西洋的な「学」の範疇に収まりませんから、はたして神学と呼ぶべきなのかという疑問さえあります。知ではあっても「学」ではない、アジア的なキリスト教信仰伝達の方法が今、模索されています。
3.仏教の救いの原理
 仏教は、バラモン教を土台として紀元前5世紀に成立しました。ヒンドゥー教とは兄弟のような関係にある宗教です。仏教は、ブッダ(目覚めた者)と呼ばれた、ゴータマ・シッダールタによって始められました。当初は単一の教団でしたが、ブッダの死後100年くらいで上座部仏教大乗仏教に分裂していきました。
(1)究極の救い
 仏教における救いは、執着からの解脱、無我、涅槃(ニルヴァーナ)の境地だと考えられます。そのことを教えたブッダの教えが有名な四諦(苦諦、集諦、滅諦、道諦)であり、解脱に到達するための具体的な方法が八正道(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)です。
(2)上座部仏教による救い
ブッダは、あらゆる神を否定して、ひたすらな修業によって解脱することを目指しました。その流れをくんで、自分の力で解脱することを目指すのが上座部仏教です。世俗を捨て、出家して厳しい修業をすることで、悟りを開くことを目指します。自らの業によって救いに到達しようとする、「業の宗教」と言っていいでしょう。出家できない信者たちは、布施によって行者たちの功徳に与っていきます。現在、タイ、ミャンマースリランカなどで広く信じられている宗教です。
(3)大乗仏教による救い
 修業を強調する上座部仏教に対して、菩薩行を強調するのが大乗仏教です。修業による自力救済ではなく、他力本願の傾向を持っています。例えば、浄土宗は、阿弥陀仏が立てた誓願の力によって救われることを説き、阿弥陀仏へのひたすらな帰依を勧めます。ひたすらな信心によって救いに到達しようとする、「信の宗教」と言っていいでしょう。現在、中国、韓国、日本などで広く信じられている宗教です。
 20世紀を代表するプロテスタント神学者カール・バルト大乗仏教の一つ、浄土真宗の教えを読んで驚愕したと書き記しています。仏教とキリスト教という土台の違いはあるものの、阿弥陀仏への徹底的な帰依による救い(「信仰のみ」の教えに対応)や、悪人の往生(「罪人にして義人」の教えに対応)など、その主張の概要がプロテスタンティズムの主張とまったく軌を一にしていたからです。バルトは、この発見をきっかけとして、プロテスタンティズムも所詮は人間が考えた偶像崇拝にすぎないと結論しました。
(4)密教による救い
 ヒンドゥー教が台頭してくる中で、ヒンドゥー教の呪術的要素(呪文、護摩焚き、印業)などを取り入れてヒンドゥー教に対抗しようとするグループが現れました。それが密教です。他派の大乗や小乗という呼び名に対して、金剛乗とも呼ばれます。
 教えを文字で表す顕教に対して、言葉に尽くせない真理を呪術的要素や曼荼羅に込められた秘密として伝えようとすることから密教の名がつきました。密教では、業による真理の伝達と悟りが強調されます。シンボルによる真理の伝達を目指す、「シンボルの宗教」と言っていいでしょう。大日如来を中心とした一神教的要素も見られます。日本では、空海が開いた真言宗最澄が開いた天台宗が有名です。
4.仏教とキリスト教との接点
 キリスト教にも、業による自力救済を説くグループが、時代ごとに現れています。有名な、アウグスティヌスとペラギウスの論争はその一つです。逆に、信による救いのみを強調し、業による救いを強く否定したグループも現れました。ルターなどのプロテスタント運動がその代表例です。
 それら両極端の動きに対して、カトリック教会は、信による救いを前提として、犠牲による業の実践も大切にするという立場をとっています。またカトリック教会には、秘跡というシンボルによる真理の伝達の要素もあります。仏教の3つの流れと呼応するような要素が、カトリックの中に含まれているということです。3つを調和させ、バランスをとりながら信仰生活を守っていくところにカトリックの特徴があると言ってもいいくらいです。
5.まとめ
 このように概観してみると、ヒンドゥー教にも仏教にも、キリスト教と共通する要素がたくさんあることが分かります。ヒンドゥー教や仏教が神や仏に至る道として示した教えは、キリスト教徒にとっても救いに至る道の道しるべとして役に立つでしょうし、キリスト教の教えは、ヒンドゥー教徒仏教徒にとっても救いに至る道しるべとなりうるでしょう。
 ガンジーが聖書を愛読し、聖書から大きなインスピレーションを得ていたのは有名な事実です。また、たくさんのキリスト教徒たちが、坐禅やヨガなどを通して大きなインスピレーションを得ています。諸宗教を学ぶことで自分の信仰をより深め、諸宗教を信じる人々と共に救いに到達していくことができればと思います。